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脈絡はありませんが。

『幸せ』に対する意識が変わったなと、思う。

誰かにもらった幸せは、私にとって本当に大きくて、もう満足以上のもので。
だから、”こんなにあったら じゅうぶんだよ、もうお腹いっぱい、ほんと、これ以上は私じゃない誰かにあげてくれたらいいよ”って。いつもそう思っていた。
でも誰かにとっては、どうやらそんなに大きなものでもないみたいで。
”いやいやそれっぽっちで満足してんなよ、もっとこれもこれも、こんなにあるんだぜ。それだけでいいなんて、まさかそんなことあるわけないだろ”って。よくそんなふうに言われていた。
そのたびに私は、”いやもう、ほんとに、こんなにもらってしまったのに、これ以上もらっちゃ罰が当たるよ”って返していた。それを何だか不憫そうに思われたり、呆れられたり、責められてたりして。それだけ気遣ってくれることをありがたいなって思いながらも、でも本当に私はこれだけあればいいんだよ、どうして分かってくれないのかな、どうして自分の物差しだけで私の幸せを図ろうとするのかなって、ずうっと思っていた。


それが変わったと気付いたのは、とてつもなく大きな幸せをもらった時、「もうこれ以上はいらないや」とは思わなかったから。

「こんなに大きな幸せがあるんなら、あとはもう全部要らない」と、いつもみたいには思わなかった。
「こんなに大きな幸せがあるんだ、じゃあきっとこれから、もっと大きな幸せにたくさん出会えるんだ」って、その時はじめて思った。

そう思った自分にびっくりした。
そんな真人間みたいな感想が私の中から出てくるなんて!嘘だろー!
って思ったけど、全然嘘じゃないし、その感想が全然変わらない。
これはねぇ、事件です。一大事件です。僕を知っている人にしか分からないだろうけど。


まさか自分がそんなふうに考える日が来るなんて、ちっとも思っていなかった。寧ろそんなふうに言う人を、憧れとともに軽蔑していた。軽々しい奴って思っていた。
でも自分で感じたことは、それがほんとうだから。
今までとは違う『ほんとう』が私の中で『ほんとう』になったんだって、この ちっとも変わらない私がそんなに変わったんだって、びっくりした。

「もっと欲しがっていいんだよ」と ずっと言われてきたけど、そう思われていた理由も今なら何となく分かる。当時は「甘やかしすぎだよ」って思っていたけど。
すごいなぁ。分かる日が、来たんだなぁ。生きていてよかった。


それは僕の課題のひとつなんだ。
実際にそういう課題を出されている。私がどんなに良くなっても、成長しても、ずっと出し続けるよって言われている。大事な課題。
「自分を大事にしなさい、自分を好きになりなさい」って。「何でも欲しがりなさい」って。「限界まで手を伸ばして、もっといっぱい手を伸ばして、もう駄目だこれ以上は無理だって思った、その先を見なさい」って。

この課題を出された時、実はちょっと不満だった。私なりに欲しがってるつもりなのに、大事にもしてるつもりなのに。
でもこの件に関しては、もう既に何回もダメ出しを食らってて(笑) どうせ「その"私なりに"とか"つもり"とかが駄目なんだよ!」って言われるのは分かっていたから、素直に承諾した。
それに、嬉しくもあったんだ。今だって(私なりに)精一杯望んでる(つもりだ)けど、もっといいよって言ってくれるんだな、って思えたから。
まだいいの?ほんとに?怒られない?って恐る恐る聞きかえした私にさえも、その課題自体が大きく力強く頷いてくれているような。そこに答えが全部あって、怖くなってもここに戻ってくればいいって、道標のような、そんな言葉たちだったから。


そろそろと踏み出した道は、今までとはまったく違っていて、全然上手に歩けなくて、ずいぶん迷惑もかけた。
それでも歩こうって思えたのは、やっぱりこの課題が嬉しかったからだと思う。

自分のことなんてもう分かってるつもりでいたし、きっと変わったってあんまり変わらないんだろうなって思っていた。
誰かは変わったかもしれないけど私はこのままだと思うっても、心の底では思っていた。
それを経験したから、そこ通ったから、分かるんだよって言われても、それはあなたの場合でしょう?って思っていた。
でも「君が言うならやってみる」ってそれなりにあちこち歩き回ってみたら、少しずつ少しずつだったけど、ちゃんと分かった。少なくとも、分かり始めた。
そしてこんなに変わり始めた。たぶん私はもっと変わるし、これからも変わり続けると思う。それはきっと楽しいことだと思う。
この言葉を言えるってことが、私にとってどれだけすごいことか。ちょっと、言葉では伝えられそうにない。たぶん大袈裟じゃなく、ベルリンの壁崩壊ぐらいの歴史的事件。


ふと気づけば、「私という存在は赦されるのだろうか」と怯えた夜が、なくなっています。
正解は「赦されない」だろうなと99%で確信しながら、でも、だからこそ赦されたいと、強烈に強烈に願いながら、泣きたいのか落ち込みたいのか何なのかも分からなくなって、愛情と肯定に飢えて乾いて眠れなくなる夜が、もうしばらくないのです。

僕はきっと、初めから赦されていたんだ。
素直にそう思えた自分が、ほんとうに、すごくて、今 僕は僕を、誇りたい。


そうなれたのは、それは間違いなく、僕の力じゃない。

たくさんの人の力、そして、たったひとりのきっかけ。
だってね、最初の一歩目って、誰でもいいわけじゃない。いや二歩目三歩目だって誰でもいいわけじゃないんだけど、一歩目って とにかくでかい。きっと他の人の言葉だったら、信じられなかったと思う。
だいたい「君が言うならやってみる」って思ってるのだから。「あいつが言うなら、そういうことにしてみてもいい」みたいな。「そういう前提だと仮定してみてもいい」みたいな。

誰かをそこまで信頼するようになった理由って、他の人から見たら たぶん「え、それだけ?」ってことなのだと思う。
(正直言うと僕なんて、その理由を一つも覚えていない。でもいつの間にか、とても信頼できる人になっていたし、その信頼以上の答えをいつもくれる。)そんな小さなことだって、当人にとっては、人生変えるほどでかい。何でそんなにでかいのか、聞かれても分からないくらいでかい。だからその人に対して何をすればいいのか、分からないことのほうが多い。

でも、今 私が持っているものが誰かに伝わったら、それが私の生きてきた意味なのかもしれない。

「あいつが言うなら、ちょっと信じてみてもいいかな」って、自分の部屋にしか居場所がなくて鬱屈としてる、そんな一人の中学生が思ってくれたら。中学生じゃなくても、高校生でも大人でも、小学生でも。
理由は何でもいいんだ、「こんなに仕事がんばってる人が言うんだったら」でも、「こんなに些細な特別を感じさせる物を作る人なら」でも、「こんな俺しか読まないような文章を描く人なら」でも。
たった一人が、「こいつが言うなら、信じてみようかな」と思ってくれたら。そういう人間になることが出来たら。

それが私の意味なのかなと、何となく思ったのです。
そして救われた私だからこそ、繋いでいかなくちゃならないような気がするのです。

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