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何と言うか 何と言うか、

しあわせ、なのである。
それが怖くも申し訳なくもないのである。

すごい変化だなぁ、と自分でも思う。
もともとの私は幸福恐怖症だった。今こんなに幸せだったら、この先どんな代償を払わなくちゃいけないんだろう。そんなふうに思っていた。
それに「自分の幸せはここまででいい」と思い込んでいたから、それ以上は必要ないと本気で考えていた。
昔『注文してない幸せと不幸の間で迷っています』って言葉を書いたことがあったけど、今思えば、これも多くの人からは滑稽に見えていたのかもしれない。
あるいは心配されていたか。

レストランに行って、「どちらかどうぞ」って幸福と不幸を差し出されたら。
私は幸福のほうを選べない人だった。
「これを選んだら、後からとんでもない請求が来るんじゃないか?」
「何か騙されるんじゃないか?」
「それに不幸のほうだったら、あの時の楽しさの埋め合わせかもしれないし」
「ここは不幸をもらっておいたほうが良さそうな気がする」
以上が ほんの少し前までの私の思考で、それはもう27年くらい染み付いていて、変わることなんてないと思ってた。
自分はこういう性格で、こういう人間なんだって。逆立ちしたってこのまんまで、これ以外の人間にはなれないって。

それが、どうした。このザマだ。わぁお。
今だったら幸せを選べる。いや、まだ ぎこちなく、「え、いいんですか?ほんとに こっち取っちゃってもいいんですか?」って何度も念を押しながらだけど。それでも選べるようになったのだ。
ほんとうに不思議なことだけど、私は変わった。ようやく土の外に出てきた。

土の外は素晴らしい。明るくて晴れやかで、くるくる回ってスキップしたくなる。そして何より、呼吸がしやすい。
そんな世界に私がいる。いてもいいのかとか、そんなん全部すっ飛ばして、いる。疑う余地なく、今ここにこうして、確かにいる。
それが ひどく、ひどく嬉しい。そうなれて良かったと思う。今は生きていることが楽しくて、生きていられることが嬉しくて、生きてきて良かったと迷いなく言える。

土の中にいる時は、土の外に出ちゃった自分は面白みがないと思ってた。自分の存在意義なんて半減するだろうなって。
でもそんなこと全然なかった。そのことにも びっくりした。
私は変わったけど、私のまんまで、土の中にいても外にいても、私は私だ。
寧ろ土の外を知ったぶん、世界が深くなった。どちらの世界も分かるから、どちらの肩も持てるようになった。それは ずいぶんと幸せなことだと思う。

土の外に出てきて良かった。
土の中にいたことも、良かった。
どちらも良かった。私の過去、その歴史、全部間違ってない。以前より ずっと強くそう言えることが嬉しい。

そして未来が、ここから繋がっている。私を待っていてくれる。
はじめてそれがイメージできて、はっきり分かって、ようやく未来が肯定できた。
ここから どこまでも行くんだ。何でも描くんだ。
僕は何だってできる。何だってやっていい。

不安も込みで、楽しみだ。
僕の未来、私だけの未来。
ビューティフルに生きて死ぬための、僕らの人生だ。楽しもう。

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