セラピストとしての在り方への気付き

泣く、という感情表出も含めて、

10時間、いや、45分昼食休憩のみ挟んで朝九時から夜11時まで、13時間、声を出して話し続けた

恐ろしい記録だ


そして、深く、ある種、行くところまで行く、我を忘れて全身全霊を注ぎ込む(まあ、どんな浅かろうが深かろうが全てそうなのだが)、大変に互いの感動と変化の深いセラピーを立て続けて3日連続行ったという、記録


そして、これが、私を通して成されたのか、という、ある種夢のように通り過ぎた感覚を同時に味わいながらも次第にずっしりと重く沈んでくる実感


それと同時に、このこと自体、私は自分をディスカウントする必要はないのだろうと、ゆっくりと体感として現れている実感


いや、実はそれでも未だに「セラピスト」という実感はないのだが

セラピーをしている自覚さえ実は薄い

ただ、ただ、目の前のクライアントの問題解決、自己実現に寄り添うため、そんなに真剣に前に進もうとしている大きな素晴らしい存在を目の前に、湧き上がるままに、尊敬し、誠実に、全身全霊で真っ向から向き合っているだけ


この在り方が私の今を、セラピストとしての現状の何かを邪魔しているのかどうかはまだわからないが、


しかし、セラピー中は自分でも不思議なほどに不動の自信を持っている

不動の自信に溢れておらねば催眠下のセラピーはできない

当たり前と言えば当たり前なのだが

どんな人間関係を行っている時より、不動の自信が共にある


また、これは3日続けた深いセラピーのうち2日目の人とのセラピーであるが、セラピー中に私自身の問題と見事に合致したものにぶち当たってきた

私は僅かな心の揺れを感じ、この揺れを感じたままではセラピーの効果が揺らぐ可能性がある、それでは、と、丁度クライアントをディソシエートさせていたので、それを利用し、遠慮なく等身大の自分で(といえるものであろうか)、これはまさに私も今直面している課題であると先に白状し、今ディソシエートして目の前に見ているクライアントと、私と、同じ問題を持っているこの2人に、言葉をくれと、

いわばディソシエートしたクライアントをセラピスト仲間の応援として引き入れ、ディソシエートしたクライアントと私の2人でクライアント(と私)のセラピーをした。


ああ、セラピー中の私はこんなに、ある意味なりふり構わず、ある意味まるでセラピストの顔もかなぐり捨てて(いや、もともとないのだろうか?)、ある意味悪びれもせず、大胆なことができるところがあるようだと思う

(同時に、これができたのはクライアントとのラポールがしっかりと築かれていたからだとも実感して感謝に堪えないのであるが)


以前にも、クライアントに突然、(そのクライアントから受けた私の感情を伝えねばならない状況下であった)うまく感情表現ができないがゆえに私の感情をカウンセリングで引き出してみろと、突如難題を押し付けセラピスト役をさせたこともある

無論、ただ闇雲にセラピスト役をさせたわけではなく、目的として私のカウンセリングをして私から出てくる感情を知ったり共感することによって、またセラピスト役(というある意味安全な枠内)を通して本人が自分の中から湧き上がる感情に気付く、というセラピーの主軸の意図も無論忘れず、寧ろ突如のその方向転換をすることによって達成した。


昨日(今回の連続の3日目)にしても、また別のセラピーであったが、最初のパーツにインステートさせた時、私はタイミングを計り間違い(通話であったこともあり、様子がわからなかった)、しかも初めて催眠下でパーツへのインステートを体験したクライアントに、余分なイメージをさせてしまった。

が、その時も私は、「そのイメージは何だろうか」とイメージの内容自体にはわずかに揺らぎはしたものの、それをさせてしまったことは私のタイミングが遅れたからであると即座に解り(そもそも最初から適切に行う技量を備える必要はあるのであるが)、不動の自信の中で落ち着いたままインステートをし直させ、それを利用して更に入っていかせた。


実は、自分で自分の対応になかなか着実さを見出していた部分がある。


ここで私が(恐らく自分も相手もディスカウントすることなく等身大で)不動の自信を持つことができているのはなぜか。


わからない。

ただ、現段階でひとつ言えるのは、

私は、クライアントとの今回のセラピーのゴールのためならなりふり構う必要がない、何が何でも何をしてでもクライアント(の中にいる偉大な医師)の求めるゴールに突き進む。そのゴールを得る為ならばなりふり構っている暇はないし重点ポイントは向こうから教えてくれる、それを見誤ることはない、いや、見誤っている暇もないということ。


……


それから、もうひとつ、セラピー全体から見たら小さいことだがセラピストとしては重要と捉えねばならないことであると思うのだが、もうひとつの気付きがあった。

これは、全く以て翌朝になって気付いた。

私は昨日のセラピーで、これから入る内容の方にいつの間にか先走って集中してしまった部分ももしかしたらあるのだろうか、深化法も確信体験もすっ飛ばして深いセラピーに入ってしまった


どんなに時間のないセッションでも誘導後、軽くは行う必要がある

しかも、深いセラピーを行う前は通常、何回か回数を重ねて催眠というもの自体に入る練習や、ディソシエートやインステートの練習をするもの

このクライアントには、実はまるでそれもしなかった

最初に催眠と言うもの自体の説明と被暗示性テストを少しばかり行っただけである。(私のクライアントは、実はそれもしていない人もいるが)


いや、私のクライアントは、ほぼ全員、兎角、私がその辺りをすっ飛ばしても全く問題ないとごく自然に判断してついやってしまう程に、一気にセラピーに突入する準備ができてしまう


これは、彼らが催眠にそれだけ入りやすい体質なわけでも、


私の誘導技術が優れているわけでもない


それだけの、私とのラポールの深さ



何を言おう、彼らが、彼らこそが、セラピー中の私の不動の自信を支えてくれているのだろう


極めつけに思い起こしてみれば、昨日のセラピー、カウンセリングに随分と時間をかけた。その上、私の中では、まだ情報不足を感じていた。

(いくら情報不足でもセラピーをする時には必ず適切なゴールには導かねばならない、逆に情報不足でもセラピーを行うことはできる、と習っていたのだから、そこでそもそもそれを躊躇してはならなかった、それを思い出して突き進むことが必要だったのかもしれないが)


しかも、恐らく深い長丁場のセラピーになるだろうと感じていた。その上、通話で、しかもセラピーの途中でクライアントの家に帰宅してくる人がいるであろうと予測された。

その時にセラピーの佳境であったら?

私はその時に一番躊躇していた。

勿論それをクライアントに説明するようなことはしなかったが、しかしクライアントの無意識の奥底におられる偉大な医師は本当に鋭く賢い。

私に踏み切れと命令せんばかりに、彼女の中に、そのセラピーで扱おうとしていた症状が出てきたのだ。

その症状が普段起こるシチュエーションではないのに。

そこで私は安心し、「話したくて出てきてくれたのか、やれと仰るのか、わかった、ありがとう」と、その症状と偉大な医師にまるで護られて促されるかのように、深い長丁場のセラピーに踏み切ったのだった。

ちなみに、途中で、しかもまさに佳境で、帰宅者があった。しかし、催眠下であっても、深いラポールの絆の下で安心・適切に、クライアントと共に協力して対応し、全くつつがなくセラピーを続け、終えることもできた。


まさに、私はクライアント、そしてクライアントの中の偉大な医師たちに支えられることで、セラピー技術を引き出され、寧ろこの偉大な医師たちに見守られている中で、育てていただいているのだ。それこそ、まるで研修生のように。

私は、ただただ、彼らを心の底から尊敬し、憧れ、誠実を尽くしているだけなのである。


これは、私は、これで良いのだろうか、本当にわからない。

しかし、どんなに少なくとも、これに関して私は自分を値引きするわけにいかないし、値引きのしようもないというところが体感なのだ。


そして……更に感じてみれば、私は何と青二才らしい思いを綴っているのだろうと思う。そしてこれは、今、(今まで徹底的に「社会と自分を切り離す」プログラムに縛られていた)私は、やっと、「社会における自分のポジション」を、自分の中に取り入れ、考えることを始めている、ということでもあるのだろうか。

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