日本のセラピスト養成の現状

(2023年1月26日記録)
これは、決して批判ではない。

先に記した上で、記録としておきたい。

やはりちゃんと本場(となっている)アメリカの資格を、一度、取っておくことにした。

理由としては、催眠療法他を全て繋げたメソッドを研究していくためにも、もっと科学的な視点で細かい部分まで基礎を固めておきたいこと。

もう少し内容としてもしっかりした資格を持っていることで、社会的に打ち出すことのできる範囲も広がり、活動に繋げやすくなるかもしれないこと。

そして、日本の催眠療法協会の資格は取得はしたものの、現段階では経済的にこれ以上進むことができないこと。

そして…本当ならば恩師の元でと思ったが、恩師の元でも恩師の責任上の理由(禁忌の受講生)とやはり経済的な理由で少なくとも現段階ではこれ以上進むことが困難となっているため、別のところでの取得を図ることにした。

そして、昨日、講義の第一回目。

その前に、郵送で、米国協会の(ものを和訳した)分厚いテキストが2冊、届いていた。

これはありがたい。

内容としては、恩師の元でやった範囲は超えないが、しかし、細かいメカニズムも(ある程度ではあるのだが)説明されている。

恩師は、これらを全てひっくるめて総合した上で超大に発展させたメソッドを1年がかりで紹介して下さっていたから、1回1回の授業がとてつもなく濃密ではあったが、細かい科学的な基礎メカニズムまで網羅している暇がなかった(質問すれば勿論どこまでも答えてくれたが、そもそも質問するにも難しい上、それを何名もいる中で解説してくれるには、逆に別の学問の知識も必要となってくるため難し過ぎることになってしまう)。

しかし、この方のメソッドは全ての基礎中の基礎を全て網羅した上で積み立てられ積み上げられ大成したものであるため、同じ基礎メカニズムを知らないことには、真髄や応用の研究ができない。

この師に馬車馬のようについていけるだけの経済力を工面できる場合は良いが、現段階では、こんな大宇宙の入り口を垣間見せて下さった、この足がかりを寸分も無駄にせず、師の弟子たちが学んでいるような”やり方・技法”ではなくその奥底・根拠・真髄から極め、似通ったやり方を恩師がご自身でやっておられたのと同じように(とても同じように、とは言えないが)、自ら編み出してゆく、見つけ出してゆくしかない。

そのためにも、もっとはっきりさせたい基礎的な部分、裏付けたい仮説が沢山あった。

この手のスクールは粗悪なものが横行しているため、注意深く、しかし背に腹は代えられず、別の場所での受講を決めた。

どんなに少なくとも米国の基礎をなぞってはいる、少なくともおかしなやり方はしていない講師であることは確認できたため、ありがたかった(無意識にアプローチする催眠療法は、それこそ僅かな受け継ぎ違いでたった一言で真逆の暗示を入れてしまう、危険性の高いものであるため)。

そして同時に、受講を決める前の僅かな情報からそれを確認するだけの見極めがこの身に備わっていたことにも、改めて気付き、ありがたかった。

今回はおよそ2か月。10回きりの授業。

ただ、期待に含まれることは、その後もアシスタントとして再受講が自由となることと、卒業生同士でのコミュニティができ、研究を深めることができること。

プロとして活動できるまでにこの期間で仕立てるというのだから、これにはやはり恐ろしさ(危機感としての)は感じたが、しかしそこはもう背に腹は代えられない。内容として何を身につけるかは本人次第だ。

オンライン講義であるため本当にありがたく、昼前から夜まで、休憩を抜くと6時間弱だろうか。

恩師の元では1日8時間近くやっていたが、しかし時間的に同じ6時間で換算しても…

昨日講義が終了し、講師は「疲れたでしょうからぐっすりお休みください」と言って下さった時、私が感じてしまったことは、

「…今日、何かやっただろうか…」

いや、もちろん、内容は全て覚えている。が、これだけの時間でここまでか?

そして、確かにテキストに書かれていないことも多く話してくれてはいた。が、「ああ、なるほど、こういう教え方をするのか」程度に面白い、というもので、深掘りする説明でもなく…

つまりは、同じ6時間であったとしても、濃密さも疲れ加減も、恩師の時の20分の1ほどだ。

無論、足りなかったと言っているわけではない。

そう感じた自分に驚きを禁じ得なかっただけの話だ。

つい半年前までの1年間、どれだけ鍛えられていたのか、恐ろしく痛感した。

そして、面白いことに、内容よりも「なるほど、こういう教え方をするのか」と、教え方の面で、また別の角度からの気付き発見、着想を得ていたこと。だから、ある意味、別の意味で、満足感も覚えていたので、これもありがたかった。

それに、やはり少なくともマニュアルの内容だけは真面目に伝えようとしてくれている講師だ(これだけでも実は心底ありがたい)。

潜在意識の世界が本当に僅かな一要素とっても計り知れない程、深いこと(だからここでは言い足りない、とは言わなかったが)、重ねて伝えていた(そんなことも伝えず、「こんなこともできるんです、あんなこともできるんです」と技法をこれ見よがしに伝えたりやらせたりするところも多いそうな)。

恩師は、1年間、20回程度だったろうか、しかし1回が通常(昨日のものを”通常”と敢えて表現してみるなら)の20倍以上の濃密さで、それでも触りだけしか紹介できていない、ここだけでも伝えなければならないことはせめてこの10倍はあるのに、セラピスト養成講座となったら最低でも数十倍ある、と言っておられたものを…、実際その奥深さ、恐ろしさ、理由を教えることにしっかりと費やして下さった。

昨日の講師は、「10日間で全て教えますから、プロとしてできるまでにはしますから」と言い切ったのだから、恐ろしいものだ。

もちろん、社会的な意味で、この講師のスタンスも良くわかる。だが、この講師の元に来た受講生たちの簡単な自己紹介を聞いたのだが、これがなかなか空恐ろしさを感じるもので。

潜在意識の奥深さ、危険性の扱いについて既に知っていた上でこの講義を受けたならこの講師の真意も伝わるだろうが、そうでない人に対しては、この講師は…わかってはいるのだろうが、潜在意識がどれだけ奥深いものか、計り知れないものか、というところの伝え方が浅すぎる。奥深い、ということだけは何度も伝えようとしていたが、奥深いからこその心構えやスタンス、向き合い方を伝えなければ、受講生は扱い方がわからぬまま、結局マニュアル通りにしか動けなくなるかあからさまに逸脱して技法に酔って恐ろしいセッションを行うようになってしまう。

このような受講生の輩出だけは、避けねばならない……これを、恐ろしく痛感した。

そして、私自身が正にその紙一重の立ち位置におり、ともすれば実際紙一重でおかしな側に立っているのかもしれないということも、常にせめて重々承知しておらねばならないということ。

だから、せめて正統派の裏付けはとり続けねばならないということ…

…だから、背に腹は代えられず、受講を決意したのだが。

実はこれも期待していなかったので、ありがたいことに、ちゃんと質疑応答の枠を設けてくれる。

それでも、突然あまりに本質的な質問をすることは遠慮した。

ただ、どうにも、セラピーをする上で技法の上で、気になっていたこと、知りたいことがあったので、また、その場で初めて(実は全く初めてではなかったのだが)習い実践してみた技法がひとつだけあり、それに関してわからないことが出たので…その2点だけならいいだろうと、質問をしてみたのだが。

…いや、想定はしていたのだ。

しかし、あまりに想定通りの答えが返ってきたので、衝撃が拭えなかった。

セラピーをしていく上で身につけておきたい、せめて考え方を知りたかったクライアントの見極め技法に関しての質問は、言葉を詰まらせた挙句、「そんなことは知らなくてもセラピーできるから大丈夫ですよ、そこまで細かいことする必要ないです」

実はこの講師、NLPも教えておられるとのことであったし、実際この講師自身、NLPを身につけることで催眠セラピーでの成功率も上がったことを実感しておられると話していたので、僅かにNLPに繋がるところで質問したのだ。しかも、催眠技法より前の、というよりも催眠技法に入る”ため”の、カウンセリングでの情報集めのことについて。

そうしたら、あからさまに怪訝な声で「もしかして、NLPから来られたクチですか」と聞かれた(これに対しては「いや、私はNLPは全く深くない」と答えた)上での、上記の回答だった。

この人は、催眠にNLPも取り入れて繋げてやっておられるのではないのか。それで成功率があがって、セラピーに役立つと、クライアントの安全を高めることができると知っているのではないのか。

いや、そもそも、この人はちゃんと、「技法も技法ですが、ちゃんとカウンセリングをして差し上げなければなりませんし、その前にラポールを築くこと、催眠下に誘導した後でどのようなセラピーをするかが最も大事です」と口にしておられたのに。

なぜ、ほんの僅かなことでカウンセリングの効率もラポールを深める効率も倍加することなのに、その上その後催眠下に明らかに確実に誘導しやすくなる情報なのに、その回答になるのか。

しかもNLPのことだって別に明らかにNLPを学びましたといわんばかりの要素と繋げたわけではない。そもそも私はそこまですらNLPを知らない。僅かな基礎的な考え方を聞いただけなのだが。

私は、最初の軽い自己紹介で、心理カウンセリングもしている、資格を取得し催眠療法の考え方を取り入れたい、とも発言をしておいた。

だから、実際カウンセリングで必要だと感じているから聞いたのだ。

「必要と感じていなかったら聞きませんよ」と喉まで出かかった。

もし、その場で真摯に考えて答えても、全く初めての受講生もたくさんいる中で回答するには場違いである、深くて難しいということであれば、私の質問自体を肯定してくれた上で、「個別に答える」選択肢を出してくれたはず。

いや、そもそもカウンセリングをする講師であるならば、ラポールを大切にする講師であるならば、私が質問したこと自体は受け止めて肯定してくれても良いのではないか。

つまりは、「教える」ことだけが目的の講義なのだという認識は、持っておいた方がよいらしい。

この人にご自身の中でのセラピストや講師としての向上心があるかないかは知らないが、少なくとも「研究者」ではないらしい。

そして、私はあわよくばこの方からNLPも吸収したいと思っていたのだが、NLPに関しても、恐らくもう私の方が考え方としては深いのかもしれない、と感じさせられた。

私はNLPの応用を見てきた。そのため、NLPの考え方・真髄はこういうことではないか、と推測・憶測をして、その上でカウンセリングや催眠療法に取り入れ、それを知っているか知らないかでの歴然とした違い、重要さ、必然さ、親和性を痛感してきた。だからこそ、喉から手が出るほどNLPはやりたかった。

NLPの考え方に関しての裏付けがない。小手先の技術がない。形式的な知識がない。そして、そのもとには、根本的な考え方、本質的な軸が付随すると思っていたのに。

「NLPでテンプレート的なことばかり教わったが、結局考え方や論理・本質が全くわからなかった」と苦しんで、私のところにいらしたクライアントさんの言っていたことが本当に良くわかった。

恩師の「日本のスクールで教えているのは、セラピーとは言えず全部ただの催眠誘導です」と言っていた意味を、本当に実感してしまった。

この人は、正統派を真面目にはやっておられる。それはどうやら外れてはいない。しかし、そんな人でも、これか。

また、こちらは少々想定から外れて(想定以下で)驚いたのが、もうひとつの、彼が教えてくれた技法自体に対する、単純な質問。

これは、クライアントがこうなる場合もごまんと出てくるはずだ。

それなのに、答えられず、私が出した仮説に対しても、「うーん…」だけで、いや、せめて「…それは違うと思いますけどね」とだけは言ってくれたか、「多分別の要因があるんだと思いますよ」

…と。

…待て。せめて何らかの形で消化させてくれ。演出でもいいから受講生を納得させ消化させるくらいしてみせてくれてもいいだろう。

……いや…もしかしたら、知ったかぶりもできずに「知らなくていいです」と伝えるのが精いっぱいなだけ、根は真面目な良い人なのだろうか…。

なかなか、新しい世界をある意味で見せてはもらえたが、…この私の基礎的部分に関しての質問2つは、どう収拾をつけたら良いのだろうか。僅かなヒントで仮説が裏付けられそうなのに、一度口から出してしまっただけに、どうにも気持ちが悪い。

そして、本質的な、下手をすると議論になりそうな深い質問(というよりも裏付けが欲しいだけなのだが)も2つあったのだが、こちらはまだまだ封印する時代が続くか。


そして、その第一回目の受講後。

本日は私は本気でこの受講だけに予定を決め込んでいたのに、夜もう寝ようという段に、クライアントからSOS(表面的には私への抵抗で困っている……それで私自身に素直に相談してくるだけ素晴らしい)の着信。

営業時刻終了後、いや、時間内でも突然かけたりするようなことはしない、しっかり弁える思考があるひとにも拘わらず突然かけてきただけに、切羽詰まったものがあるのだろうと、受け取り、先程の講義とのギャップの激しいかなり深い、少なくとも私にとっては難しいカウンセリングをした。

セラピストとしては本当に、セラピスト冥利に尽きるというのか、喜ばしいクライアントの大きな一歩を見ることができ、喜ばしい限りであったが、営業時間外しかも全く想定外に(しかも着信に対応して良いものか際どい判断の挙句)、思いっきりクライアントの転移感情・暴言・喜びやら真面目な難題やらをぶつけられたので、個人的な心の方で少々、(切り替えてはいたものの)振動程度の衝撃を受けたか。

その後すぐに器を眠らせたのだが、講義の余波とこの余波のためか…寒かったにも拘わらず、夜中に大量の寝汗をかいた。恩師の講義や深いセラピーを受けた夜にもこんなことはなかった。即座に毒素を排出しただけもしかしたらこれも成長なのかもしれないが、いろいろな意味で、未熟だなと、軽く自嘲した朝であった。

そんな昨夜のクライアントは、本日、本人にとっては大変な挑戦である、喜ばしいひとつの門出である。

セラピスト心というのか、下手をしたら親心というのか、本当に喜ばしい大切な日だ。

恐らくこの日のためにも切羽詰まって昨夜でなければならなかったのだろう。

報告をしてくると言っていた。

報告は聞きたいが、珍しいことに、私の中に少々、はっきりと、こんな感覚がある。

今日はセラピストとしてのことを、一切したくない。

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