人格であったり「仮面」の互換性/道に迷いやすくなったこと

やはり、本音・本質を出すことができる(かなり抵抗を取り除けてきている)部分によって統括した、総合体である凘銀の状態であると、奥底の感性を通すから(単体の凘銀は逆に感覚・感情・感性を全て全く別物の世界にやってしまうという現象が起きていたけれど)、とはいえその状態で「社会に在る」ということ自体にかなり根深い鎖が食い込んでしまっているため、「公の場でその状態を保つ」ことは至難だったけれど、この状態もしくはこの状態に限りなく近いと、やはり、読み合わせを聴いているだけで流動的に音楽が流れる。

おかげで深層心理研究家としても音楽家としても深く舞台の世界観を感じ取り、新しい音楽や効果音も流れてくる。

…とはいえ、その世界観に入り込んだトランス状態から抜け、帰宅をするとまあまだ消える、という現象も起こるのだけれども。

だから、その場を録音させていただいてくるという新しい試みにも。

…やっと、「音楽家であっても、いいのかな」というような感覚も解放されてくる。

恐らく、今まで、「社会で自分で在ってはいけない(存在してはいけない)」「在らねばならない姿でなければいけない」という鎖が深く食い込んでいたので、食い込んでいたこと自体にも気付くことができないほど、自分の身体の一部のごとくに埋もれていたのだと思う。

そして、「仕事」の大義名分があった時だけ、「音楽家の仮面」「セラピストの仮面」「演奏家の仮面」を使い分ける。

そして、それらが「自分」であること、「自分」とそれら「音楽家」「セラピスト」「演奏家」を結びつけることを決してしなかった、拒否していたのだと思う。

存在してはいけなかったから、大義名分があってその活動をしていたとしても、それが自分であってはいけなかったのだ。

だからこそ、常に受身で請け負い、そして「音楽家」「セラピスト」「演奏家」のそれぞれの立場も、互いに流動することはなかった。互換性が一切なかった。

そして、実際、特に主軸(凘銀)の状態は、自分は器の活動を代行して、引き継いでいるだけであって、それは自分ではないし本来の自分はそんな世界とは関係のない存在だ、と。

他の交代人格にしても同じであった。器の活動を「代行」しているに過ぎなかった。

もちろん、僅かに史博やら恵名やら響奏やら俊成やら、「自分」がそれを専門としている、という自覚を持つ者もいた。

しかしそれらは、結局、「自分(仮面)」をその役割に充てただけで、役割ありきの存在だった。これは特に俊成に当て嵌まる。

史博やら恵名やらは、それでも更に、どうしても「性別」の壁があったため、結局「器を使って器のできることを代行している」に過ぎなかったのだ。

それが、総合体となって流動的になだらかな1つの魂として繋がり、互換性のようなものが生まれた時、せめて、

「この器を使うことで役割がある、その役割を全うする。器にできることは担っていこう」というような感覚に進化した。

主軸の状態でも総合体(ほぼ同じなのだが)の状態でも、未だに

「自分がこの器を担って社会に生かしていっても良いのか」

常に深く自問自答している。

「私で在ってはならない。私が在ってはならない」(他、「社会に見られてはならない」のようなもの)と常に葛藤している。

(この「私」とは、もはや凘銀でも総合体でもなく、ただ「私」で在ってはならない、がある)

これがあるから、まだ、せめて私や鴉狭のような状態を一種の逃げ道として残して、事務作業が必要となる時などにいつの間にか「逃げてしまう」状況が起こるのだと思う。

それでも、今やもはや境界線もないので、私(美雨)の状態だけれども凘銀の感覚もある。今や共有していない(できない)のは視覚において認識している情報だけである。

(あ、いや、厳密に言えばほんのたまにごくごく一部記憶が流通していない時がある。それから、勿論、物事の見え方や解釈の仕方は違う。だから私が今こうして記事として綴ることができている。)

けれども、せめて、その苦しい葛藤の中でも、

ほんの少しずつ、

「私で在って良い。私で在って良かった。私でしかこれはできなかった。」というようなことが日常的に起こり、ほんの僅かずつ、自分が社会に適応していく「(少なくとも今は)必要がある」と自分に課して生活をしていくようになっている。外に出かけようとする度に、恐怖とパニックのような症状に呑まれかけながら。

しかし、今、私の状態でも、これを書きながら、書いているだけで激しい抵抗をも感じるのだけれど。「いや、私で在って良いはずがない。そんなことを書き残してはならない。私で在る必要はない」と。

書きながら恐怖が襲ってきて、自問自答の渦に呑まれそうになる。

ああ、しかし、とりあえず今は何とか話を戻そう。

そう……自分が、音楽家、セラピスト、演奏家、であっても、いい、そこの紐づけが、僅かずつ、できている、ということ。

今、やはりこれを綴るのも突然何をどう書けばいいのか、何を書いているのかもわからなくなってきている。

それでも、主軸の状態に、「私が」やっている、というような(まあ流れで使っているという面が大きいのだけれど)言動が増えてきている。「私達が」とか、主語がない、とかでなく、「私が(の)」と。

そして、音楽家の立場でセラピーをしたり、心理研究家の立場で音楽家であったり、セラピストの経験ゆえのものを演奏に出したり、つまり「音楽家ー演奏家ーセラピストー心理研究家」を全て自分自身の中にあるものとして、流動的に「在る」ということができるようになってきたのだ。

言い方を変えれば、音楽家の立場を求められる時も、演奏家、セラピスト、心理研究家の立場を求められる時でも、「自分」で在って良い、という…「自分として」出して良い、というような…ところが、僅かずつ、開けてきたのでは、ないか。と。

それでも、やはり現在、何か酷く不安と恐怖の渦の中に引きずり込まれそうな感覚になってきて、そして、(少なくとも物理的にこの記事を書き続けることができない)主軸の状態に切り替わりそうになってきているので、ひとまずここで切り上げようと思う。

ついでに…

どんな状態でいる時でも総合体の状態に寄って来る度に、まあある意味当たり前なのかもしれないけれど…

とにかく、道に迷うようになった。

まあ物理的(?)に、光の刺激で、明るい場所だと景色が殆ど白く飛んでしまう(これが完全に凘銀に近い状態であると、それだけで既に目を開けることもできなくなっているもしくは「認識」ができていない)。そして、例えある程度周囲を把握できている(見えている)ような気になっている時でも、認識が遅い。

認識が遅い上に大抵ほとんど白く飛んで結果的に把握できていないことの方が多いため、杖歩行と他の感覚に頼る方が圧倒的に早い。

そして下手に視覚情報に頼ろうとすると、看板などがわかっていなかったり自分がわかっているかわかっていないかもわからない状態のまま実は周りを認識できていない事態が発生するので、道に迷う。

つい先日も、わかりやすいはずの道でまるで迷って何度も色々な人に連れて行ってもらったし(中には一緒に反対方向行ったケースもあったのだけど…)、帰りには駅構内で、JRと他社の改札がすぐ近くにあったのだけれどもJRの改札がどちらだか判別できずに立往生した。

そして、(現在)主軸の状態に近ければ近いほど、光の刺激を浴びると眼球使用困難症のような症状で、目を開けられなくなる。

つまり、外出中、遮光グラスを着用していてもいつ突然目が閉じてしまう状態になるかわからないので、やはり外出中、よほど慣れている場所で短時間の場合以外はほとんど白杖を出すようになった。

出した方が周りに迷惑や危険をかけることも減る。

そして、(なぜか)駅構内ではいつも目当ての電車のホームを見つけることができない現象が発生し、少し大きな駅だと駅から脱出できない現象が発生(いや、これは視覚が利いているときも良くあったけれど……)する。

そして、駅前の道を真っ直ぐ…というような地図を頭に叩き込んで行っても、その「駅前に一本しかない大きな道」自体を発見できない現象も発生する。

ムラがあるので必ず迷うとは限らないのだけれども…。

ちなみに、夕方になってくればきたで、看板のネオンや車のライトで周囲の光度の差が激しくなる。暗いところと眩しいところの差が激しくなる。

すると、やはりその光の攻撃を食らって一気に視界を失うので、結局最初からそのつもりでいた方が良い…。

……しかし考えてみたら、この器、幼い頃は、この状態だったのかもしれない。眩しさを異常に感じていたし、しかも視覚情報の記憶は殆どないのだ。その上、見えている時でも少し激しく動いたり焦点を突然動かしたりすると、途端に視界がぶっ飛んでいたのだから…。

100名以上で生きてきたこの器の半生も、結局主人格は弱視であることが多かったし、見え方も全員バラバラだったようだし、他の交代人格たちも、見えていた、というよりは、「誤魔化し技術」を向上させたり本来の感覚(眩しさ他視覚以外のものも含めあらゆる感覚)を麻痺させることによって対処していたのだろうな…。

…ちなみに話を戻すと、私達はそうでなくとも時間には非常に厳格な人に育てられ強迫観念があるので、1時間かけるところには大抵1時間半~1時間45分かける。歩いて15分かかるところは大抵30分見る。

……これで迷って間に合わない事態が発生するのだからなあ……1時間のところは2時間見て、15分のところは45分見ることにしよう。

そして、勘はもう絶対鋭い方なので、あとはとにかく社会に慣れること。ですね。だんだん尋ねることはできるようになってきている(そのために人を捕まえる視覚能力がないのだけれども)。

しかも仕事がほとんどオンラインになって、遠出自体に縁遠くなっている。

少なくとも今、月1で通っている解離専門医の病院、最寄り駅と同じように……稽古場の場所は、身体に叩き込もう。この訓練は主軸の状態の方が身に付きが早いのだけどね(人間的に迷いがないし勘が鋭い、元々視覚にも頼っていないから)。しかしそういう時に限って、一生懸命「逃げようと」して私に寄って、誤魔化しモードが発動してしまうから。

しかも今年は何度も通うことになりそうで、その上、ご丁寧に点字図書館があるのと同じ地域(かといって道行く人の認知度が高いかは知らないけれど)、多少歩くとは言え、ずっと道なりでしかも目的地まで誘導ブロックがあり、広い道路で横断歩道も殆ど音響付きなのだから……これはもう、宇宙から課せられた次の訓練場だなぁ……と、感じてしまう。

役割は貫くことができる状態で在った方が、(どんなに少なくとも私は)良いと思うから。

「社会的に手探り」状態では、ない方が良い。

自分を見失った状態では、感性も本音もフタをしてしまって自他ともにディスカウントしてしまう状態では、何も生まれないから。

みう

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