対人支援家や対人支援ができる・したい人(つまりほとんど全てのひと)の人間関係の持ち方―「でどころ・目的」は双方向でなく平行方向に

ヒトの言動や行動には、ほんのごくわずかなものであっても、必ず「理由」「でどころ」がある。
その言葉、その言動、その行動、その態度、その質のエネルギーが、どこから出てきているか。

…こう言うと、
「あ、私は日ごろからこうこうこう思ってて今~で~だったからそう言ったんだよ/こうしたんだよ」というレベルの、いわば顕在意識もしくは深くとも前意識(意識にのぼるかのぼらないかギリギリの意識下)レベルのものだと思われることだろう。

私が言いたいのは、実はそこではない。
ヒトの言動や行動は、どんな僅かなものでも、必ず「理由」「でどころ」がある。これをせめて言い換えると、必ず「何らかの目的のためにそれをしている」と言っても良い。
必ず、ヒトは僅かな言動でも行動でも実はちゃっかりと「目的」のために動いているのである。
(学術的な言い方をすると、これを交流分析的な言い方での自動思考パターンとか人生脚本プログラムと言うこともできる)

ただ、これが、本人の人生にとって有益・建設的な目的であろうが真逆の(人生としては本人にとって不利に導いていくような)目的であろうが、
少なくとも現代の人たちをみていると、ほとんどのヒトが、どうやら自分で自分の言動行動の「でどころ・目的・何のためにどうしてその言動行動が出たのか」を、わかっていない。顕在意識で後付けの理由付けで懲り固めて「わかっているふり、つもり」をする人は多いのだが。そしてその言い分は寧ろその人の潜在意識が言っているものとは真逆に思い込んでしまっている場合すら多い(というより、寧ろ真逆の理由を自分に思い込ませたり正当化するためにわかっているふりやつもり、自分で自分の分析をしているふりをする)

私は、その、ヒトの僅かな言動行動のいちいちのでどころ、理由、目的が、「視えて」いた。
その人本人が口で言っている理由Bとまるで真逆の理由Aが、まるで同時に日本語と韓国語で右耳と左耳にいっぺんに申し立てられているくらいの感覚で聴こえてきていた。
幼い頃からそうであったので、まさにこういう表現しかできないような当たり前の聴こえかた、視えかたである。
ただ、その言動行動を起こしている本人は、実はまるで自覚していないのだ。

同時に、私は、今でこそどういうことか判明してその僅か一角を言語表現できるだけのものであるが、
ヒトというのは、例えどんな思い、思考、感情、感覚、言動、行動があっても、すべて、必ず、それはその本人の顕在意識で自分でわかる領域で自覚できるような”ぽっと出”ではなく、必ずそれが出てくるまでに潜在意識(身体)の水面下の膨大な計算式の過程がある。
私は、それが、幼い頃から(実は今はもっとかもしれないのだが)、無自覚・無意識領域での通常自覚にあがってくるまでの過程の計算式が、通常よりかなり水面下が水面である、というような感覚、つまり、かなりの通常多くのヒトが無意識の領域のことが、自覚化されてしまっていた。
だから、自分自身の言動行動のおおもとや、自分が顕在意識の後付けの理由付けでそれと真逆のような理屈や決めつけをひねり出す「理由」も「過程」も、自分のものも他者のものも「視えて」しまっていた。

例えばあなたでも恐らく仲の良い2人に、1人には右側から「こっちにいこうよ!」1人には左側から「そっちにいってはだめだ、こっちだよ!」と同時にぶつけられたら引き裂かれんばかりであろうと同じように、私自身ひとりの人(相手)の顕在意識と潜在意識で真逆の言葉が同時に聴こえてきてその料理法がわからず常に苦しかった時期もあった。
同時に、自分自身の中からもそれが全部自覚化されているので、その自覚化されてくるものの処理方法がわからず苦しかった時期もあった。

寧ろ、その暴動を止めるため、その料理法、処理方法を知るため、ときには「視えない」「聞こえない」「自覚化されない」ようにするために、同時にその視える聞こえているものを顕在意識方面からの理論的裏付けをするためにも、心や身体のメカニズムやあらゆる理論、古今東西のあらゆる療法や概念を見てきた。

今やあらゆる理論からも裏付けされ、そしてその視えるもの聞こえるものの正体がわかり、顕在意識、潜在意識、内臓、身体、魂…などそれぞれの立場からの声を聴き分け、それぞれへの対処法も開拓した私には、
確かに対人支援家、セラピストとしての人間関係においては非常に重宝するものでもある。
(同時にここ数日に並べた記事のような根本的哲学もある)

と、同時に、私は個人、ひとりの人間として個人的にかかわるとき、そしてそれを建設的、お互いにお互いの人生に有益なもの(総合的総括的な意味で)としてかかわるときは、
やはり、

その人、本人が自分の顕在意識と水面下の理由や目的がちぐはぐではなく、一致している
もしくは、
その人本人が自分の水面下が自分でわかっていない、自覚できていないということ自体だけでも自覚をしており、それでいてそれに気付きたい、気付こうとしているヒト

とでなければ、私にとってもそのご本人にとっても(一見表面的には建設的有益なように見せかけられても)、負のスパイラルを生むことになる。

なぜなら、上記以外のヒトとは、結局のところ、「セラピストとして」の関り(前の3つほどの記事にも述べたが)となってしまうからだ。
それともうひとつなぜならと述べるなら、以下のような理由で、結局セラピスト―クライアント関係でもないのにセラピストスタンスでかかわってしまうと、ご本人にとって危険だからである。

(理由)
上記の後者「気付きたい、気付こうとしているヒト」というのは一見難しいが、これは「自己分析」という意味では決してない。自分の深いプログラム、目的にそもそも気付いていない自己分析はそのプログラムの策略の中で行う、真逆に不利益を積もらせるものである。また、口では「気付きたい、知りたい」とやっている人もいるが、それまた「気付きたい、知りたい」とパフォーマンスすることで相手に引きずられたいなどの目的が結局ある上、こういう人たちは自分でそうであることにも気づかない。気付きたいなら幸い私のほうが専門家としてまだ活動もしているわけなので聞いてこられる選択肢などもあるのだが、それもせず、ただなぜか目的も理由も時間も中途半端にしながらそれでも私(と見せかけながらセラピストである私のごく一面や私の持っているもの)に引きずられてしまっている状態になる。その引きずられてしまっている状態にも気付かない(というより、このどちらから引きずられてしまっている状態というのは、実は両者ともにひどく気付きにくい。どこかでなぜか心理ゲームを仕掛けられようとしていることに気付いた時にわかる)。


それと同時に、セラピストや講師としての私を、つまり金銭枠を使っても、という見方をしてくる場合にも、

私は、ここの記事やWebsiteからの情報など、無料領域内で得ることのできるものが非常に多く、そして非常に深いものがこれまた多い。
本当の意味で自分を解放したくて、自分と向き合ったり学びたくて私のセラピスト・講師の面を求めてくるひとは、
そういうところから得られるものも(文字情報を得ることが困難な事情を抱えていたり、人生の時間を自分の益になる仕事や活動や学びなどでよほど隙間のないほど埋まっているわけでもない限り…いや、相当忙しい人であっても)、まずはそこから一生懸命得ようとされる。得ようといろいろなところを、見て読んで聞いていらっしゃるし、セッションや講座でかかわっているときも同時にそういうところからも(私がセラピスト・講師としての判断で止めない限り)しっかりと得続けておられる。そして、発信したものは非常に断片的なものでしかないわけなので、普段の私の説明の中でどういう意味でどう繋がることなのか、自分はこれでこう書かれていたのを見たのですが…と、ご自身から聞いていらっしゃる。

そして、私はそのかたの状態や段階、受け皿を見ながらもちろんお話をしているわけだが、そして自動プログラムに支配された”クライアントさん”ならば言われたことをなかったことにしたりそのかたご自身の認知能力や言語能力と著しく下がった段階で曲解したりしてしまうことは当然あるのでそれはそれでその個々に合わせてお話をするわけだが、それでも、私への興味や私に何とかして取り入ろうというご自身のゲームではなく(ちなみに”クライアントさん”でそういうゲームに支配されようとしているかたは私はセラピストとしてそのクライアントさんご自身がそのゲームを使わずに済むようになっていくためのアプローチをとる)本当にご自身と解放し向き合おうとされているかたは、前の話の続きのようなかたちとして、次のもう少し深い部分でお話することができる。というのは、ご本人がご本人と向き合いたいがために、そしてそのために私から情報を得ようとするがために、私の発していることを受け取りながらご自身でご自身の受け皿を深くして次いらっしゃるからである。
おもしろい話、ヒトの心理というのは、大抵表面的に視えることとはまるで逆の現象が起きているもので、
本当に自身と向き合いたい場合、そしてそれに必要な情報を私から得ようとなさるかたの場合は、表面的に見ると「そこまで読んだのですか」と言うほど私の発信の深い部分まで興味を持ってしっかりと咀嚼しようとしておられる。
そうでなく、実は(おおかたの場合ご自身の心理ゲームに支配されて)私に対して興味を持っているだけで私に影響されよう私から吸えるものだけ吸って私に取り入ろう(実はその吸ったものもご本人の無自覚のうちにご本人の中で益となるものというよりは曲解だらけで咀嚼できない未消化物、へたをすると毒にかわってしまうのだが)とするひとは、表面的には私からいろいろな情報を知ろうとしたり私がちらりと垣間見せる情報に興味を持って食いついてくる振りをしたり、学びたい自分と向き合いたいとパフォーマンスはするのだが、実際のところ、少し情報を共有しようと試みてみると、その時点でもう内容ではなく「情報をもらえること」「教えてもらえること」「私と関わっていること」自体を表面的に吸い取る。
(ちなみにその内容は、表面的にはとても理解しようとしているかのように一見ふるまったりするが、実はとても理解を深めたり自分も共感する共振するかのようにふるまいはしても実質そのパフォーマンスを無自覚に必死でしようとするがゆえに本当に突っ込むべきところやはっきりせずわからないところは聞いて来ない・次回にまるで残っていないかまるでふりとつもりだけで知ろうとしていないがゆえに本人なりに深めるのではなくてまずい方向やとんちんかんな方向に振りかざしていくかする、などという現象が起こる。そのため当たり前ながら上記したような、それに関することで”私”が補足したり発信しているものなどにはまるで興味がない。まるで別のヒトの一見同じような話でまるで違うことをさも「これ見たんだけどこれって~」などと持ってきて無自覚だがかなり作為的に振り回そうとしてくるため、一切中身は進展しない。)
というようなことが起こる。
ちなみにこれらはその人自身の前提知識の欠如や思考能力の有無に比例しない。なぜなら、私は前提知識の問題であるなら、そして本当に必要とするものならばそこから始めるし、思考能力という意味にしても、そのかたが論理的な考え方をするひとであろうがそうでないひとであろうが、本当に「ただまっすぐ」ゲーム仕掛けでなく対等に来られるかたとは基本的にどなたとでも心地良くお話するからである。

この違いは確かに一見ひどく際どいので、実際に上記のようなところのゲームに知らず知らずに引きずり込まれて行っておられる対人支援家も非常に多い。(私自身もそうであった時期がずいぶんあるし、個人のかかわりに見せかけてそういう渦中になってしまう場合も多々あった)

が、こういう場合は、こちら側が吸い取られるだけでなく、ご本人にとって長い目で見て非常に不利益であるし、中身の成長を寧ろどんどん阻害してしまう。

そのため、(そしてそういう心理ゲームの渦中に気付かず入ってしまう対人支援家は、実はそういう心理ゲームの渦中に入ってしまうという弱み、そういうポジションについ自分を持って行ってしまう・持っていかねばならないというような自分自身の中での未解消の課題、区画整理が残っているということであるため)、対人支援家としてだけでなく個人としてもそういう人間関係を持ってしまう。
しかしながら、セラピストや講師などというと特に、世間一般の多くのかたにはつい情報を自分から出してしまったり(決して出し惜しみをしろとかいう話ではない)影響を与えやすい、引きずられたいプログラムを持っているひとを無自覚にいつの間にか引きずってしまっていやすいものでもある。

だからこそ、結局、個人として個人と関わる場合、
その人、本人が自分の顕在意識と水面下の理由や目的がちぐはぐではなく、一致している
もしくは、
その人本人が自分の水面下が自分でわかっていない、自覚できていないということ自体だけでも自覚をしており、それでいてそれに気付きたい、気付こうとしているヒト
とでなければ、私にとってもそのご本人にとっても(一見表面的には建設的有益なように見せかけられても)、負のスパイラルを生むことになる。
ということになる。

つまり、ヒトの僅かな言動行動であっても、「でどころ・目的」は、その人生の(その時点での)道での「でどころ・目的」がある。これは前意識領域・無意識で知覚されており(知覚ということ自体が本来は意識化されることであるので語弊はあるが)、その自動プログラムによって動かされている。
この「でどころ・目的」が、双方向ではなく、同じ平行方向にあるならば、例え互いの年齢や持っている領域や思考回路や能力や知識や技術レベルなどがいかに違っていたとしても、対等な友人関係を持つことができる。
これが双方向であったり、斜めであっても相手の「人生の道」にあると、これは(例えば二人が自分の道をそれぞれの車で走っているのに、これが正面衝突しようとしたり道が交わったりしているようなもので)互いに危険でしかない。一見向き合っているように見えて、実はまるで相手の事も自分の事も考えていない(益としない)のである。
しかし、やはり、そのためには、自分の人生の道は視えるように(いや、実はみんな視えているはずなのだが現代人はその目の前にありとあらゆるものをくっつけて曇らせたり塞いだり無意識の目的と意識の目的がちぐはぐになるような方向性・ひとが爆発的に増えている)しておくことが、自分の人生の営みのためには必要となってくるのである。

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