ただ、あるがままに己の可能性を閉ざさず生きるということ

約3週間後の本番に突如2曲増える。
その前もちらりと2曲ほど増えてはいたのだが…。
この2曲に関しては難曲、増える。
そして叩きながら歌詞を完全に暗譜で演奏する必要のあるものが、増えた。

これが1か月前であったとしても、本番3週間前にこれをされたら到底拒んでいた。

何せなかなかの難曲の2本立て。その上、例え日本語とはいえ、5分弱の丸々を覚え(私はいずれにせよ暗譜しなければ演奏できない)、そしてそれを叩きながら歌えとは。

大抵、恒例のこのコンサート、いや…それだけではなかったか…この前の外部コンサートもそうだったか、大抵、直前に曲を丸ごと変更して私にとっては新曲になったり、丸ごと増えることも恒例。

このさり気ない恒例行事がさり気なく気付かないようないつの間にかさでスパルタ特訓となっていることもあるか。

さすがに驚きはした。しかも打楽器を専門とはしたことがない私がまるで知らないリズムを(打楽器のプロでもできない人はできないとさり気なく言っていたこともなんともさり気なく驚くべきことなのだが、さりげなく通り過ぎてしまっている…)。

おかげで、夢中になり身体に落とし込むまでとりあえず叩いてみて、いつもより1~2時間ばかりいつの間にか経っていた。

しかし、新しいリズムを入れることがひたすら心地良く、気付かないうちに、引け腰になる選択肢はなかった。

外部コンサートの時、一度、1週間ばかり前になって曲を丸ごと入れ替え新しいものにし、更には1曲の一部をアラビア語歌詞の暗譜と日本語詞の暗譜となった時は、一度は強めに危惧を訴えた。

しかし、ひとつひとつの場数というものはこれまたいつの間にか大きく染み込んでいるもので、身体がいつの間にか、可能性を閉ざす選択肢などまるでなく(その場でもちろん驚きはしたし表面的に大きな危惧はあったが)、身体はそのまま動き続けていた。

もちろんあの人のいつの間にかさり気なくことを進めている、あのさすがのやり方(無自覚かもしれないが)もあるが、何より、いつの間にかこの器の人生そのものの面で、私はいつの間にかできるものをできる限りは、できるところまでは、受け容れる気でいる。

この器の人生の可能性を閉ざさない方を選ぶ覚悟がいつの間にか敷かれている。

そして、人生の可能性を閉ざさないことを選択し続けるというのは、それ自体がそういうことなのだと感じた。ひとつひとつをどう選ぶか、ではなく、もちろん可能性を閉ざさないために、ひとつひとつの小さな具体的なことは閉ざすことがあるかもしれない(表面的にそう見えることをすることは)。

だから、人生の可能性を閉ざさない生き方をするということ自体が、これそのものなのだ。

土台に敷かれているもの。

これを敷くまでは、具体的なところでどう戦おうと、それは戦いにも勝負にもならない。

しかし……もう1曲の方は…
顕在意識で考えると、今でもまだ間に合うのだろうかと思うようなものでもある。

少し別の話。少し前に、他の曲に合わせるために、ワイヤーブラシを調達した。

実を言えば今まで手で叩く楽器であったため、撥はほとんど扱ったことがない。まるで道具を初めてもったサルのような気分だ。
間接的に叩く感覚の違いは、思ったよりも。

それと同時に、私たちは恐らく昔からだったのだろう…
スネアドラムを叩いた時の、少しくすぐるような(要するにワイヤーブラシで叩いたような)音の要素、あれが酷く気持ちよく好きだった。
猫になって喉をごろごろとやられているような気分になる。それくらいにあの音が癖になって好きである。

私自身、こんな自覚(というより己の好き嫌いという感覚自体)もまるで出さなかったし思いもしなかった(ないものとしていた)から、今こういうことを出していることも不思議だが、しかし、私はやはり音と香りに敏感に快をくすぐるものがあるのだと改めて自覚した。

そして、ジャズも好きであったのでワイヤーブラシで打面を擦るジャズのスイング打ちは是非ともやりたかった。
手元でそれに非常に近い音が(スネアはないので実はダルブッカの打面で行っている)鳴る心地良さ。
何とも身体の奥をくすぐられるような。
今回、これもできる機会があったため、ぜひともと、急ぎ調達してみたのだった。

新曲として増えた挑戦曲はジャズではないが、ワイヤーブラシが手に入ったことは重なりこれで打面を叩いたり擦ったりを組み合わせ、マーチングリズムも叩いたり幅広い音色を開拓してみることができる。
こんな愉しいことはない。

…2年前には、いや、1年前でも、打楽器への適性などまるで思ってもみなかったのに。

気付いたら、同日本番の中で演奏する専門である声楽曲の合わせを毎度忘れるくらいに馴染んでいる。

まあ…ワイヤーブラシにせよそれで打面を打つダルブッカ(一時期練習用に居住宅の方へ持ってきていた小さいほうのダルブッカが比較してスネアに近い音が出るためそれ用として使っている)にせよ、少なくとも本番までは実家へ置くことにしてしまったから、練習はできないのだが。

…それを考えるとそれに関しても、今や私は他方面で時間の割合を完全に割いてしまっており練習時間はほぼない。毎日2,3時間練習時間に充てることができたつい数か月前までですらも、本番数週間前の新曲は対応を拒んでいたのに。

いわば背水の陣だ。大丈夫か。どうしよう。
とすら、不思議なことに思うことはない(わざわざそんなことを思っている暇も気付きもないし必要も感じない)。
かといって、自信過剰でもない。まるで自信があるわけではない。
それでいて私は自他ともに見て責任は強い方であり、責任放棄でもない。
かといって当然ながら、睡眠時間を減らす気も、他方面での活動や活動準備の時間を減らす気もない。

ただ、心地良さと感謝と温かさと共に委ねている(委ねている、という感覚さえもわざわざないのだが)。

とてつもなく不思議な感覚に見えるものなのかもしれない。

ただ、どこにもディスカウントをせず(それでもどこにも、と言い切ることはできないが)、ただあるがまま、ありのままいつの間にか拓かれていく、ということは、ただ揺ぎ無く、こういうことだと感じる。

いろいろなところでいろいろな人に、何やら勘違いや邪推のようなものも含みながらいろいろ聞かれたりするので、敢えて記事として言語化を試みてみた。

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