白杖使用者の冒険―食料品の調達という大冒険

先日、ついに食料品の買い出しに行った。
…ここで、もし、おお、となって下さる方は、私を個人的にも良くご存知の方だ。

私は、ひとつの外出のためになかなか決心と覚悟を要する。
何かその日である必要がある用事があればともかく、自分のみが主体の外出は、とにかく酷く悩み抜く。
これでも、1年前や2年前よりは、いや、更には…実家にいた時よりは、随分と出かけるようにはなったと思う。

しかし、買い出しだとかそういうこととなると、それは本当に必要なものだろうか、他にどうしても必要が出た時にそれと一緒にできるものではないだろうか、いや、なくても生きていける。…というような思考回路が大抵到達するところで、必需品であっても、よし…では仕方ない行こうか、いや待てよ…少しこの作業を終わらせてから行こう。…よし、では行くか……いや行くと時間がかかるからやはりこちらの作業も終わらせてから……などという独り狂言の末、結局遅くなったから今日はやめよう、が関の山。
大抵一度出かけるかどうかと浮上しても、3時間くらいはこれをやっている。

数日前には、知っている店(徒歩5分程度だろうか)からの情報で、その日限定でほうれん草が2桁値段であったような時があり、丁度葉物が欲しかったのでぜひとも出かけようと画策して一日中頭にあったのだが、結局行くことができなかった。…とにかく、それほど、外出に関しては腰が重い。

出かけてしまえば…玄関を出て鍵を閉めてしまえば…そして、白杖の先を道路につけてしまえば(白杖は帰宅したら丸洗いする習慣があるため)…、肚を決めるのだが、玄関から出るまでがとかく悩み抜くことになってしまっている。

私の場合は、道を歩くこともまあそうなのだが、この居住地の周りは誘導ブロックや音響信号も多いし随分私にとっては慣れてきた。そして、適宜助けて下さる方も多い。この街はありがたい。
私の場合は、出先にまだ不安があるようだ。特に何か目当てのもの、もしくは適当に見繕って探して買い出しをしてくるような場合が一番、不安要素が多い。
あまり自覚はしていないのだが(それでも私は案外深いところまで自覚をしている方かもしれない)、要するに潜在的に、出先の店でのシミュレーションを脳内でしてしまうのだろう。商品を探すことができない、店の光にあっという間にやられる(全盲状態、閉眼状態になれば単独ではどう足掻いても買い物は続けられない)、白杖持ちで要するに見えているのかいないのか良くわからないような者と店内と遭遇して何やら不思議そうな反応を示す周りの客の気配、物凄い時間をかけながら結局目当てのものを探し出すことができず立ち往生してしまう、キャッシャーに並んでも人が並んでいてうまく便乗できない、順番のタイミングがわからない、うまく行ってもそこで店員とお互い疎通がうまくいかない、下手をすれば店員すらおらず画面だけがある……というような。
どれも全て体験がある(ように自分では感じている)し、店内では歩き回っているスタッフは基本的に少なく(品出しなどしているスタッフがいたとしても、せわしなく動き回ってどこにいるかわからないし、声をかけてくれることは少ない)、聞くことができない。
そこまで悲観的な可能性を見なくとも、予測は非常にし難いシチュエーションの中に飛び込むという、私にとっては大冒険なのだ。

先日は…その大冒険に行った……と、言いたいのだが、実は出かける必要のある用事があった。図書館の本の返却日であった(しかも延長済みの)。
こればかりは逃げようがないので、この日、朝から出かけるという予定を立てて予め決めていたのだった。
そして、ではついでだ、帰りに、近いので、少しここに寄ろう。
一度どんなものか試してみたい店でもあったし、情報によればこの日もホウレンソウや白菜はなかなかありがたい価格になっている。他にもいくつか気になるものがあった。…と…行きたい理由を大量に準備することで、とにかく玄関からこの器を押し出した。

実は私は図書館へ行くのもまだ慣れない。
徒歩5分程の距離でまっすぐではあるが、途中まで誘導ブロックがない上に片側に、道にも商品を出しているような店が立ち並ぶ、観光客などの通りもなかなかある道を通ることになるので気を張り遠く感じることと、白杖持ちで墨字図書の貸し借りをする図書館に入る…という、ある種の不思議な感覚というのか、違和感や不思議さを感じられるのではないかと私の側が勝手に思い込んでいる部分が実はまだある。
ともかく、まあさっと返すものを返して図書館を出て、散歩と思いながら目当ての店へ。

面白いのだが…この店、歩道から店の入り口までは、不思議なことに細い誘導ブロックが繋がっている。自動ドアを入ったらもう(ある意味もちろんというのか)つるつるの床なのだが。

何度かこの店に入ったことはあった。独りではなかったし、交代人格達が、だが。
店内は広く、品ぞろえも豊富な印象で、ひとつの種類の商品につき何種類も並んでおり、客たちはなかなかさっさと回っており、スタッフたちも、声をかけたとしてもなかなかそっけない印象があった。そんなこともあってか、独りでここに出向くのは、他の店よりも更に気が引けていた部分があったらしい。実際、独りでここで何かを仕入れたことはなかったのだから。

しかし、今回、いざ行く気になってそろそろと入り口に近づくと、男性客が大丈夫かと声をかけてくれ、どうやら入り口の外にかごがあったらしい。「かご、要る?」と、渡してくれた。
初めて野菜に手を伸ばしてみれば、なかなか立派なようだ。
しかしながら…この店、値札が、何やら電子画面になっているのだろうか?何かよくわからないのだが、文字や色の判別が難しい。あまり大きくないこともあるが、そもそも値札自体どこにあるのか見つからない。どうやら、棚の下や上に貼ってあるのではなく、商品が積んである中から雑草が生えているかのように飛び出ているようで、見つからず、ひとつひとつの野菜を見ていくのに随分と時間をかけることになった。
あっという間に光と目の酷使で閉眼状態が起こりながら、何とか今度は一番下の床近くにあった値札を見るために奮闘しようとしていると、カートを持った女性客が「大丈夫ですか?何かわからないことある?」と。
値札を読んでいただいた時、礼と同時にコミュニケーションとして「ありがとうございます。このお店、値札が見えづらくて…」と言ってみたら、その方も「うん、確かに。なんか値札、読みにくいですね」と返して下さった。同調して下さったことはあるのかもしれないが、その方も、読むこと自体に差支えはないがどちらかと言うと見えにくい印象と気付きがあったのかもしれないと感じる口ぶりだった。
そしてこの女性客、私がその後も店を回って一生懸命凝視している時に、何度か見つけて話しかけて教えて下さった。

そんなこんなでゆっくりゆっくりと売り場を端から探し物を集めながら探検し、まだ3つほど探したいものがあるのだがもうどこを探して良いのやらお手上げ状態になり、スタッフに話しかけようと耳を澄ませても、他の客に話しかけられているスタッフを見つければ(要するにそういう声でしかスタッフを見つけ判断することができないため)、そのスタッフは当然ながらその客を案内するためどこかへ行ってしまうし、どうしようかと彷徨っていたら、ここで男性スタッフが何と声を掛けて下さり、残りのものを(そして探し物の残りのほとんどは別の階だった)一緒に探してくれ、キャッシャーまでも連れて行ってくれた。
おかげで無事に会計も済ませ、荷物を鞄の中に移し終えた頃、何とこのキャッシャーのスタッフさん、警備員を呼んでくれていたらしく、しかも丁度荷物を移し終わった頃に「あのお客様がお帰りなんですけど…」と言いながら警備員を連れてきて下さった。
この男性警備員さんがこれまた優しい人で、太い通路を選んで腕を貸して進んでくれながら、「そんな慌てなくていいですよ」などと言いながら。
そして、この店は基本的にエスカレーターしかない、と思うのだが、バックヤードのスタッフ用エレベーターを使って1階に降り、外まで連れ出して下さった。ふと申し訳なさも過ったが、考えてみればこの方が他の通りすがり客にも気を遣わせることなく済むだろう。
「買い物、いつもとても緊張するので、本当に助かりました」と、お礼と同時に念を込めて本音を伝えておいた。本気で毎回3時間以上悩み抜く一大行事なのだから。
視覚障碍を持った方にとっての買い物がみんなそうかはもちろんわからないが…しかしながら、多かれ少なかれ、視覚障碍者は商品を探したり選ぶこと、店内での移動が難しいことは共通傾向があるはず。
それだけの緊張度や不安を持つものなのだ、そしてこうした配慮をいただけることがどれほど助かるかと伝えられるだけ念をもってスタッフさんや警備員の方に伝えておくのは、決して他の社会的マイノリティの人たちにも悪影響にはならないだろう。いずれにせよ私自身の本音であるのだし…

おかげで、現在実際問題かなり必要最低限に節約生活をしている身にとっては良いものを見つけることができたし(実際、目当てのものひとつにしても非常に品ぞろえが豊富で棚いっぱいに同じものが並んでいたため、独力で選ぶことは不可能だったろう。スタッフさんが値段やら製造社やら私の狙いの傾向を聞いて探してくれたから、発掘できたのだった)、今回仕入れたものに関しては場所も覚えた。
そして、何よりおかげで、1時間半はかかったものの、ほぼ初めてのこの店の買い物で1時間半で済ませることができた。
持ち帰った野菜の処理など含め、結果的に午前中いっぱいは使ってしまった。食材や必需品の買い付けに関しては私はこれくらいの手間と時間はかかるのでどうしても他に時間が確定している予定のない日に動く他ないが、それでも、独りでは丸一日かけても達成できなかったことなのだから。

案ずるより産むがやすし。
心配事の8割方は起こらない、というのは、このことである…。

そして、どうしても、白杖使用者の買い物風景には私自身もほとんどで会わないだけに、どうしても違和感を持たれているのではないか、何か邪推されるのではないか、というような勝手な思い込みが働くのは、私自身、私自身のような白杖使用への偏見となってしまう。
私は、交代人格時代(私の自覚個人だけの時は殆ど全盲だった)は、外を歩くだけならともかく、こんなシチュエーションは手も足も出なかった。
しかしながら、実際問題、ほとんど視認することには頼ることができない人たちも生活をしているわけで、彼らは私と同じように、自分なりの工夫の仕方をしているはずなのである。
そして、今の私自身ですらも、少し手間取って時間がかかったり、少し体調や環境によっては買い物行事の途中で突然閉眼状態を起こし全盲状態となってしまうのだ。今回ももう、男性スタッフが手伝い始めて下さった頃にはほとんど視認は利かなかった。あの時あれ以上手間取って店の中にいたら、恐らく諦めて帰るにしたって独りで出口へ向かう方向感覚さえもわからなくなっていただろう。

恐らく、これが1年前や2年前でも、さりげなく見守って下さっていた方や声をかけようとして下さっていた方は、おられたのではないかと思う。世の中が突然がらりと変わるわけはないのだから。
ただ、その頃は私自身に人間としての余裕がまるでなく、話しかけることも躊躇させるような雰囲気を漂わせていたのではないかと思う。道を歩いている時も、話しかけて下さる方や反応するにしても否定的な反応を感じさせない(というより私が一方的にそんな被害者感覚を持たずに済むようになっているわけだ)方は、どんどん増えている。
要するに、声をかけてもらえないし自分でどうしようもないから外に出られなかった、怖かった、のではなく、声をかけてもらえないほど自分でどうにかしようという工夫すら働かせようとせず殻に籠って、声をかけてもらえないほどに己の存在感を消そうとしながら行動し(実際本当に気付かれなかったのかもしれないと、今になっては思う)、例え反応してもらってもそれを勝手に否定的な反応としか受け止められず(要するに自分で自分に対してそう反応しているビジョンとでもいうのだろうか)、その折角の声掛けや反応に対しても己が否定的であるがゆえにそこに乗らせてもらって助けてもらうように運ぶことができなかった。
今も、見えているのだか見えていないのだかはっきりしないような、精神で手帳を取得しているくせにこんな身体の状態を呈しているちぐはぐした自分自身への偏見(ただ単にセルフイメージの整理が不完全である)ゆえに、外に出ることを躊躇ってしまっているのだと、つくづく感じる。
つい先日も就労支援関係のスタッフに、電話で我々の日常の実際の状況を説明したばかりなのだが、だんだんとそうして己を説明するようにもなってきて、それに伴いだんだん開き直るようにもなってきてから、初めてそういうことだったのかとわかってくる。

それに……あまりにたまにしか行かないと、そこのスタッフさんがたともいつまで経っても初めて状態で、毎回初めてでどうしていいか助けてはやはりもらえないだろうかというような意味なく自分の冒険を大きいものとせねばならなくなる。どうせそこまで定期的には行かないだろうが、時々は敢えて予定を組んで、いくつか店に世話になろう。

過去、地元地域と繋がりを持つため、足場を作っていくためにも、行きつけの店でも作ろうと考えていたときがあった。しかし、本当に生活に根付いた場というものは、生活に必要なものが絡む場所、こういう場所からだ。

折角なら、そして他の人たちよりも冒険を味わえるような仕組みになっているのだ、折角ならばこの器の人生も、日本も、地元地域も、冒険しようと、感じている。

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