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永い言い訳

美しい映画だった。
死 って本当に人間にとって一番大きな存在で、
それが身近な人であればある程、そして死の理由が故意的だったり突然だったり稀有な理由であればある程、その存在は常にその人の中に媚びり続ける。

今の世界では人間が死ぬのは一般的に病気が原因であるから、それで亡くなった人は周りも納得ができる。
だけど事故死だったり、災害だったり本人とは直接関係のない原因だったり、
逆に自殺という一番個人的な原因だったり
死とその人の距離が近すぎたり離れすぎたりしていると、
周りの人は動揺し、悲しみ、悔やみ、悩まされる。
その反応の仕方は人それぞれだけど、それが一生すっきり改善されることなんてない。
死は生に常に刻み込まれるものだと思う。脳のタトゥーみたいなものだと思う。

この映画のタイトルが言っているように、亡くなった人に対して十分に自分の気持ちが整理されていないと、
その人の死が自分がどう感じているかを他人に話したりするとき、すべてそれは「言い訳」のようになってしまうのだ。 だってそこに正解がないから。その正解を知っているのは亡くなった人だけだから。
でも生きている人間はその正解を、自分で予測してこれが正解なはずだと思って進んでいかないと生きていけない。生きていくことは死んでいくことと同じだ

最後のシーンで、もっくんが泣きながら「人生は他者だ」と書いているのを見て、凡庸な表現だけどまあそうだなあと思った。

人生の中で結婚をする、こどもを持つ、ということを最近とても考えさせられる。
家族を新しく持つということ。家族を増やすということ。
それが幸せにつながる確実な保証はないけれど、そうなりたいと願って必死に生きる人たちが大勢いる。

永い言い訳も、Sorry, I missed Youも、どれも家族に結構深く焦点を当てた映画だったんだけど、
すごく親という立場になった時の人間の言動やきもちに感情移入することがあって、今まであんまりそういうことなかったから驚いている。
だって親に感情移入するということはほぼイコール私の両親に感情移入することでもあると思うから。
両親にも人生がそれぞれあってすべてを親というカテゴリで分けるのはかなり雑過ぎるのはわかっていても、今の私が向き合うべきところだと思う。

親になる、ということは、子供という具現化したもう一つの人生を歩むということにかなり似ているのだと思う。
でも結局は他人。考えていることはわからない。
こうなるはずじゃなかったのに。なんでこの子はこんなことをするのか?いうのか?私のせいなのか?
考えているうちに、子供が憎くてしょうがなくなってくる。こんなに「愛している」のに?

だからこそ、私が思ったのは、
子供自身が親に対してどういう風に自分にしてきたことに返答するかだと思った。

特に私は親にはっきりと「あなたの人生は私の人生でもあるの」って言われたことがある。
私は親に「一緒に人生を歩んでいきましょう」って思ったことはないけどね笑 最初から、親がそう思ったときから、そうなっているの。そういうことに、子供としての私の選択肢はないの。当たり前だけど。

私は、本当に割と完璧に近い「親」の元に生まれたんだと思う。
人間として完璧なんではなく、「親」として。
相当な肉体的な精神的な辛さに耐えてきたのかな???いや、それとも「親」としての自分に酔いすぎているのかな??どっちもだと思う。

ここからの続きも自分のノートには書いてあるですが生まれてから今までの自分の人生と親の具体的なことなので、ここまでで。

一生懸命家族について深く考えた時間でした。

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