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散歩する侵略者

この映画を見ていた時の自分の中の気づきについて

・私が涙を流すことに対して当てはめている感情と、自分がその時に同時に認知している感情は必ずしも穴地ではない。し、
私は泣くことをほぼ反射神経として心臓の鼓動のように行っていると思った

それは、世間では一般的に泣くという行為は必ず感情に支配されて行われる動作だとされていて、
確かに私が泣くときって感情が高ぶっている時なんだけど、

散歩する侵略者を見ていた時↓
私が泣いたのは、地球が侵略されそうになって長澤まさみが、松田龍平ふんする「しんちゃん」に愛の概念を必死にうばってくれと懇願するシーン。あれは明らかに明確に、いやらしいほど感動的で、
そのシーんを見ている私の中で①純粋に「愛」の力ってすごい、美しい、死の恐怖も超えるほどのものなかという感動→②あえてわざとらしいほどの表現をしているなあという冷静にもはや皮肉に見る感情→③ ①のような見方をしてしまう自分あるいは他の鑑賞者/24時間テレビのような感動ポルノ的なものに対する嫌悪感、嫌いだわ~という感情
この3つくらいを順番に瞬間的に感じていた
頭の中は結構忙しいことになってた(まあ盛り上がるシーンだしね)

だけど気づいたら外から物理的に見える自分は部屋のベッドで画面見つめながら涙を流してる自分だった しかも涙が流れたのはきっとちょうど③の感情の時だった、

以上のすべての現象を自分が自覚したときに、
私は泣くっていう行為を自分の本意とは関係ない、ある種の反射神経、義務行為としてやっているんじゃないか???って次に思った。

こういう瞬間って、全然初めてじゃなくて、たまに、本当は感動してないはずなのに「まあ四捨五入して大体の人はこれには感動するよね」っていう映画のシーンや場面に出くわす、ほぼ反射的に泣くんだよね。

これってなんなんだろう、割と最近数年間で泣くっていうことについて結構考える時間が多かったから、余計気になってしまうんだけども。

本当の感情と連動して涙が感情の可視化として直接的に表れる時と、
そうじゃないさっきみたいな時と、
きっと俳優が演技として泣いているシーンの感情の構造はまたもう少し違うものなんだと思う。

一時期栄勝が忙しすぎて精神的に追い詰められていた時、結構よく泣いていた。電車の中でふと悲しくなったら泣いてしまったときがあった。自分が一番びっくりした。周りから見られるかもしれないという羞恥心に完全に感情が勝ったのだろうか。

でもこれを考えることができたのって、絶対に「散歩する侵略者」を見ていたからなのだと思う。
映画自体が、SFで人間というものをすごく客観的に、一歩引いて考えさせるシーンがすごく多かったから、そしたら同時に人間である自分のことも客観的に見る「モード」に入って、だからこういう風に感じたのだと思う。

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