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番外編〜まばゆいほどの美しさ バリ島(2008年記)

今回はパリではなく、「バリ」での話。

初めてバリへ行ったのはいつだったか、
当時北インド古典音楽を習っていたので始めはインドへの短期留学を考えていたのですが、インドという国は余りにも強烈で、ましてや若い女の子一人で行くのは危ない、という周囲の反対もあり、初めての海外への一人旅にはちょっとインドは向いてないかなと思いインド行きは断念した。
そのかわりに、「バリはとってもいいから一度行ってみたら?バリの舞踊団を率いている王家に嫁いだ日本人女性の奥さんがいるから、その人の所に泊まれば安心だしとても良くしてくれるから。」
と勧められて行った先は、ウブドにある小さなプリアタン村のマンデラ家。
ここは世界的に有名なバリ舞踊団グヌンサリとティルタサリの本拠地で、伝説の舞踊家で王族の血を引く故アナック・アグン・グデ・マンデラ翁のお宅である。
そのマンデラ翁のご子息と結婚されたのが恵子さんという日本人女性で、プリカレランと呼ばれる彼女の家の敷地内には幾つかバンガローがあり、私は知人からの紹介でそこに泊まることになった。

朧げな記憶を辿っていくと、バリ島のデンパサールにある空港はびっくりするくらい小さくて、なにもかもがまるで50年以上昔にタイムトリップしたような印象だった。
到着後に迎えの車を呼ぶ為公衆電話を探したのだが、そんなもの、ナイ。
空港に公衆電話があるのは当たり前と思っていた私が受けた初めてのカルチャーショックというもの。
飛行機が遅れたので、その時既に深夜で、しかも大雨が降っていてものすごく焦った私は、必死になって空港の警備員みたいなインドネシア人をつかまえて、滞在先の住所と電話番号が書かれたメモを渡してここに電話して欲しいと頼んで電話してもらった。
電話事情が発展していないのでなかなかつながらなくて泣きそうになりつつも、やっと恵子さんにつながった時は、とてもとても嬉しくて
「サンキュー!!バリの神様!!」というような心持ちだった。

プリアタン村に到着したのは深夜だったにもかかわらず、私を待っていてくれて、優しく迎え入れてくれた恵子さん。
バリ人のように髪を結い、民族衣装を着て、それがまたよく似合っている。
上品で知的な語り口調で、テキパキとそつなく的確に物事を進める聡明な女性という印象通り、彼女は王家の嫁として家を守り、3人の子供を育てながら大家族の世話、旦那さんが大きな舞踊団を率いていたのでその仕事のサポート、
宿泊客の世話から現地での通訳、コーディネーターとしての仕事、と毎日尋常じゃないくらい忙しい人だった。
「平均睡眠時間は3時間から5時間です」
彼女の本業は画家で、なかなか絵を描く時間はないけれど、忙しい合間を縫って踊り子の絵も描いていた。

バリ島は、一度足を踏み入れたらその美しさに引き込まれない人はいないだろう。
2週間の滞在中、朝起きて散歩に出かけたり、踊り子の練習風景や舞踊団のリハーサル風景を見学したり、ウブドの市場へ買い物に出かけたり、
夜は舞踊団のショーを見てたまには観光スポットへ行ったけれど、殆どウブドに滞在してのんびり過ごしていた。
滞在二日目に見たバリ舞踊の魅力に引き込まれてすぐに夢中になってしまった。
バリ人の踊りの先生からダンサーに向いていると言われてすすめられたけれども、結局習わなかった。

恵子さんの義弟であるオカ氏は当時ティルタサリ舞踏団のダンサーで、クビャールトロンポンという名で打楽器を演奏しながら激しく踊る、ちょっと独創的で美しい舞踊を踊っており、特にそれを気に入って、踊りの先生でもあるオカ氏の練習風景を見せてもらったりしていた。
エステに通い、指先から頭までの手入れは欠かさないという恵子さんからの情報の通り、 美意識の高さは踊りの細部まであらわれていた。
現在は3つの舞踊団のリーダーとして活躍されているらしい。

それから2、3年後、2度目にバリを訪れた時は母を連れてのツアーで行った。
その時は恵子さんの所ではなく、ウブドにあるリゾートホテルに宿泊したのだけれども、空港到着後に迎えの車を待っていたら、偶然にも恵子さんにバッタリ再会したので結局また彼女のお世話になり、忙しい合間に観光に連れて行っていただい
た。
たったの2、3年で、バリはめまぐるしく変化を遂げていた。
変わらなかったのは、バリとバリの人々を愛して、ただ、ひたむきにバリ文化の発展に貢献しようとしている恵子さんの懸命な姿は今も強く目に焼きついていて、嫁いだ異国の地で強く生きようとする逞しさに、私は目が眩むようなまぶしさを感じたのである。
いつかまた、バリに行きたい。


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