ノンバイナリーでもロリィタを着て良いじゃない 〜精神ロリィタからの脱却〜


タイトルの通り「ノンバイナリーでもロリィタを着て良いじゃない」と「精神ロリィタからの脱却」の二本立てです。

私は竹原、ノンバイナリーのサピオセクシャル!
昭和生まれの母親に「ノンバイナリーなのに髪長いままでいいの?ロリィタ着るのはOKなの?」というクソ質問をされたので自分なりのロリィタに対する感情とノンバイナリーのファッション及び容姿について語っていこおうと思う。


「ノンバイナリーらしさ」とは
ノンバイナリー、男女二元論に属さない者。簡単に言ってしまえば「男でも女でもない者」のこと。
それを踏まえて私の容姿と服装の趣味嗜好をざっと挙げてみようと思う。

容姿
・黒髪ロング重ためぱっつん姫カット
・バストサイズはF65
・顔タイプエレガント、盛り耐性カンスト
・細身の骨格ストレート
・PDアバンギャルド
・ブルベ冬
好きな服装(順不同)
・ピチピチクロップド×だぼだぼローウエスト
・ドレスシャツ×ブーツカット
・全身レザーコーデ
・ド派手ボディコンドレス
・ジョジョに出てくるような謎服
・ロリィタ
苦手かつ興味の無いな服装
・シンプル(UNIQLOに着たいものがない)
・小さい柄
・ボディーラインの出ないもの
・メリハリのないビッグシルエット
大体こんな感じである。
似ているアイドルは(非常に恐れ多いのであくまで雰囲気として捉えていただきたい)ブラックピンクのリサさんとアイドゥルにミンニさんらしい。

そう、私は完全に「女性らしい/女性の身体的特徴を出せば出すほど綺麗に見えるタイプ」なのである。何なら全裸が一番盛れる気がする。
シンプルな色やデザインの服を着ると驚くほどテンションが上がらないし似合わない。であれば似合うし好きな服を着ていた方が明らかの精神衛生に良い。これが私の答えである。それに則って私は女性の身体的特徴を活かした服を着ている。

しかし葛藤や苛立ちが無いと言ったら嘘だ。
胸が邪魔で不愉快で不気味で毟り取りたくなる日もあるし、髪をバッサリ切ってネオンカラーに染め上げたくなる日もある。しかしやらない。似合わないから。胸に関しては一度本気で嫌になって「胸を好きになりたいから鎖骨下から胸元にかけてタトゥーを入れたい」と親に言ったが猛烈な反対に折れて諦めた。髪はメンズ用ウィッグを買ってセットして被ったが顔がフェミニンすぎて似合わなかった。

似合う、似合わない。好き、好きじゃない。
この兼ね合い、折り合いを付けるのは非常に難しい。特に私のように容姿にコンプレックスがある上で客商売を行うような人間には、特に。
自分の肉体に対して「完全に満足する」日は永久に来ないだろう。美に取り憑かれていることを自覚しているからだ。「自分が望む美しい状態でいたい」という欲求に底は無い。誰からも「美しくあれ」と言われていない。しかし他でもない自分自身が「美しくいたい」と叫んでいる。小学生の頃から容姿のコンプレックスが酷かったためにこのような思考に陥っているのだろう。その詳細はまた別の機会に綴ろうと思う。

前置きが長くなったので本題に戻る。
「ノンバイナリーらしさ」とは。中性的な、身体の線が強調されない服装。シンプルなメイク。メイクもしないかもしれない。つまり、ぱっと見たときに「男?女?」と聞かれるような容姿。これが世の思う「ノンバイナリーらしさ」ではないだろうか。そして女性の肉体を持った私が求められるのは「男性らしさ」である。男女の枠に嵌まらないと言う事は、個人の持つどちらかの属性をもう片方の属性とぶつけて打ち消し合い中和することだと思っている人が多いのではないだろうか。男女二元論を否定した外側にいるというのに、何故か「女っぽい/男っぽい」と糾弾される。

そもそも容姿に関しては完全に個人の自由が尊重されるべきである。
シス男性がピンクのスカートを履いても良いように、我々ノンバイナリーもピンクのスカートを履いて良い。当たり前のことだ。だのに、「ノンバイナリー」であることを理由に「中性的な容姿」を求める外野が多いのが現実である。
母に「ノンバイナリーなんだから髪切ってヘアドネーションでもしたら?」と言われた時、形容し難い無力感と諦念に襲われた。母はシス女性である。彼女から見れば私は「女っぽすぎた」のだろう。私は髪の長い私が好きだし、ヘアドネーションに関しても染髪や脱色を行っていない私のような髪に需要があることくらい想像出来る。母の上記の質問はノンバイナリーという属性の人間の髪が長いことへの疑問と、ノンバイナリーであるのであれば髪を切り社会貢献した方が良いのではないか、という二重の意味でのマイクロアグレッションである。私は吸っていた煙草を取り落としそうになるのを堪えながら平静を装って「勿体無いから切らない」とだけ返した。母に何を言っても無駄なのを知っているから。

そしてロリィタについて。
病状の悪化に伴い実家に帰り100着以上の服を整理しているとき、最後にロリィタ類の収納を行った。父は存外に寛容(だが根底に差別意識がありながら“ポリコレを分かっている俺”タイプなのでやや苦手)で、「この布どうなってんだよ〜」と言いながら丁寧にフリルの山をしまうのを手伝ってくれた。その時だ。母から「ノンバイナリーなのにロリィタ着るの?」と半笑いで聞かれたのである。日本が法治国家であったことを幸いに思って欲しいと思うことは多々あるが、こんなに素直に「ぶち殺すぞ」と言いたくなったことはあまり無い。この問いかけ——問いかけと言うには含まれた侮蔑が喉に引っかかるが——も髪の話の延長線上。ロリィタ服が「女っぽすぎる」からだ。溺れんばかりにふんだんにあしらわれたフリルたち。繊細かつ豪奢なレースの意匠。サテンの煌めくリボン。そして、日常生活を喜捨せんと膨らんだスカート。私はそんなロリィタが大好きだ。だのに。ノンバイナリーだからロリィタを着るのはおかしい?巫山戯るな。寝言は寝て言え。冒頭にも述べたように、容姿に関しては完全に個人の自由が尊重されるべきである。母に何と言い返したかは覚えていない。手が出なかっただけ有難いと思って欲しい。


初めてのロリィタから精神ロリィタに囚われていた学生時代まで

「ノンバイナリーはロリィタを着てはいけないのか」

何度も自問自答し、その度にインターネットや雑誌で見た「少女」「神聖」「美学」「かくあるべし」……このような文言が脳裏を過っていた。

私がロリィタに目覚めたのは中学生の頃。丁度第二次性徴期に伴う肉体の変化に苦しんでいた頃だ。Twitterで仲良くなったお姉さん(以下Aさん)がゴシックロリィタ愛好家だったのだ。TLに時折彼女のゴシックロリィタ姿が現れる度、私は形容し難い羨望に襲われた。

「私もあんなお洋服を着てみたい」
「私もお人形さんみたいになりたい」

そんな欲求は日に日に強くなり、Aさんに会った時——幸いにも彼女と住んでいる場所が非常に近かったのだ——思い切って自分の思いを伝えてみた。私も貴女のように素敵なお洋服が着たい、と。Aさんは青薔薇の付いた指輪で私の手を握って微笑し、言った。
「じゃあ今から行ってみる?」
黒いフリルのあしらわれたスカートを横目に、半ば押し込まれるようにして某ロリィタメゾンの店舗に入った。勿論地元のロリィタメゾンの店舗は把握していたし、学校帰りに目の前を通り過ぎショーウィンドウを少しだけ眺めたこともあった。しかし、実際に入るのはこれが初めてだった。
私があまりにきらきらと眩しく光る店内に圧倒され茫然自失としている内に、Aさんは顔馴染みの店員さんにあれこれと事情を伝え「試着をさせてほしい」と伝えてくれた。店員さんはそれを快諾した。目一杯に並ぶ黒や赤、紫の服たち。実際に間近で見ると、その繊細さや華麗さに言葉を失った。そしてあるジャンパースカートが目に入った。それはもう、私の好みのど真ん中もど真ん中。理想そのものであった。私がそのジャンパースカートを眺めていると、店員さんが合うブラウスとヘッドドレスを持ってきてくれた。あれよあれよと試着室に押し込まれ、初めて触る布の感触にどぎまぎしつつ悪戦苦闘しなんとか無事に着ることが出来た。そして鏡にうつる自分を見たときの感動たるや!私の心の中にある空白にぴたりと何かが嵌まった音がした。

とは言え中学生に一式を揃える財力など無い。(以前の記事にある通り私の家は確かに一般よりも裕福だが、教育方針として与えられる小遣いは極めて平均的な額であった)Aさんも店員さんもそれを理解していただろう。今客になれない自分が一気に恥ずかしくなった。情けなくもあった。のろのろと着替えて元来ていた服を纏って、店員さんに頭を下げて正直に「今は買えないが、いつか必ず買いに来る」と伝えた。彼女は笑顔で「待っていますね」と言ってくれた。Aさんも店員さんも、子供の私に夢を見せてくれたのだ。今でも感謝している。

そして約一年後。私は小遣いを貯めて再びそのお店に一人で行った。一歩、店に踏み入った瞬間、あの時とは違う別の店員さんから頭から爪先までを点検し品定めするような視線を感じた。薄々気付いていた。あの時は「Aさんがいたから」店員さんが優しかったことに。それでも刺さる視線を無視して店内を探した。探して、探して——あの時のジャンパースカートはどこにも無かった。勇気を出して“これ以上店を歩くな”と言わんばかりにこちらを睨む店員さんに一年前のあの店員さんが書いてくれたメモを見せた。この名前のジャンパースカートは無いか、と。そして彼女はそのメモを見て鼻で笑い「その型はもう販売してません」と言った。呆気に取られて何も言えなくなった私に彼女は追い打ちをかけるように宣言した。

「ジーパンを履くような子供が着ても似合わないと思いますけどね」

その後のことはよく覚えていない。逃げるように店を出て、家に帰って泣いた気がする。Aさんにも言わなかった。言えなかった。ロリィタを一着も持っていない人間がロリィタメゾンの店舗に入ることは許されないのだと身を以て体感した。

少し考えれば分かることだった。
ロリィタメゾンのモデルさんは全員大人の女性。インターネットで見ていた人も全員大人の女性。私のような「子供」は何処にもいなかった。そして私は第二次性徴期に抗うかのようにメンズ服を着ていた。ブラを着けることさえ嫌だった。それでも膨らみ続ける胸を目立たないようにオーバーサイズのパーカーを着て、肉の付いてきた脚を隠すために緩いジーンズを履いて。そこで漸く己がロリィタに相応しい「少女」ではないと気付いて、果てしなくやるせなかった。完全無欠の少女でなければ、性自認が女性でなければ、ロリィタに相応しくない。ロリィタを着て良い身分ではない。そんな桎梏が私の首を絞めてきた。

それから数ヶ月後、素敵だなと思うワンピースを見付けた。今度はゴシックロリィタではなくクラシカルロリィタだった。小花柄、生成りのレース、ドライフラワーにした薄ピンクの薔薇を彷彿とさせる色。そう、私に似合う筈のないワンピース。それでも私はそのワンピースを買った。

程なくして家に届いたワンピースを身体にあてて鏡越しの自分を見た。

「ああ、なんて似合わないのだろう」

驚くほど素直な感想だった。
何故私が絶対に自分に似合わないと思ったワンピースを買ったのか。それは、全てを諦めるためだった。ロリィタという憧れを己の中で断ち切るため。あのジャンパースカートを忘れるため。いっそ最初からロリィタが似合わなければ良かった。否、絶対的に似合っていた訳ではない。化粧も下手で、髪はボブ。成長しきっていない肉体。それでも私はあのとき、「自分はこの服を着るために生まれてきたのだ」とさえ思った。ああ、だのに。こんなことならいっそ、最初からあのジャンパースカートに出会わなければよかった。

そして私は、そのワンピースと共にロリィタへの想い全てを段ボールに詰め込んで奥底に隠したのだった。


時が過ぎ、私は大学生になって上京した。
ワンピースしまい事件から様々なファッションを経験した。今では主流だが当時はまだ「KERA系」と呼ばれていた所謂「地雷系」や「パンク」、「量産型」。これらを通って、大学に入る頃に流行っていた「韓国系」に私は返信した。前髪を立ち上げてセミロングほどになった髪をMIX巻きにし、周囲に埋もれようとした。

しかしそれも長くは保たなかった。

女子大に進学したせいで、同級生はおろか教授からも出産や結婚や異性愛者だと決め付けた上で「彼氏」の有無などの話ばかりをされて、遂に私の精神は壊れた。大学一年生の冬に体重は40kgを切り、ろくに食事も出来ず授業に出ても内容が理解不能、終いにはテスト期間に二日徹夜をした後、部屋で首を吊った。(失敗に終わったが)

女子大という「女性」だけが通うはずの大学にノンバイナリーの自分が通って良いのかという葛藤、周囲へカミングアウトして排除されたときの恐ろしさ、しかし言わねば自分が破壊されていく現状。
限界だった。

精神科に通い睡眠薬や精神安定剤を飲み、大学では精神疾患による配慮を求める何らかのシステムを利用しながら——今思うとアレは殆ど機能しておらず、ただ教授達に“竹原は鬱病である”ということのみが周知されるだけのシステムだった——なんとか二年生に上がった。そのタイミングで私は、自分を偽ることを辞めた。今まで着ていた「それなりに似合うがそこまで心が動かされる訳じゃない」服を売りまくり、美容院を変えて中学生から続けていた黒髪重ためぱっつん姫カットに戻した。この時既にロングヘアーになっていたので、理想だった黒髪ストレートロング姫カット個体になれた。メイクも変えた。どぎつい人を喰ったような赤リップと真っ黒のアイシャドウを買った。15mmのカラコンとコスプレ用の真っ赤なカラコンを買った。そして手放した服の売り上げを握り締めながら、フリマサイトであのときのジャンパースカートを探す日々が始まった。

結論から言うと、見付かった。それも全く同じものが。すぐに購入して、その足でクロチャに行きブラウスを買い、メゾンに行ってコルセットを買い、ネットでその他必要な物を買い揃えた。
全ての品が届いて、丁寧にメイクをし髪を整え、震える手で服を着た。鏡の中には、背が伸び病気のせいで線が細くなった、美しい自分がいた。

その瞬間、私は完全に救われた。あの忌々しい店員の言葉からも、全てを諦めようとした中学生の私からも。私は5年以上の時を経て、漸く理想の「お人形さん」になれた。そして、ノンバイナリーである己がロリィタを着ることも赦すことが出来た。


ロリィタにおける精神論と資本主義

精神論。あるか?と聞かれたら、まぁ、ある。
例えば、身体を売った金でロリィタを買わないという制約を己に課している。風俗業に従事したことがあるが、その金をロリィタにあてた事はない。

貴方にとってロリィタとは?と聞かれたら、私は「武装だ」と答える。

何故ロリィタを着るのか?と聞かれたら、私は「自分を好きになれるから」と答える。

ロリィタを着てどうなりたいのか?と聞かれたら、私は「人ならざるモノになりたい」と答える。

昔から25年組と呼ばれる方々の漫画を読んでいたことと、「人間」という存在の醜さを自覚していたから、私は常々「人間じゃない何かになりたい」と思っていた。それを叶えてくれるのが、私にとってのロリィタだ。

ロリィタ服は特別である、という言説は昔から存在する。そしてそれに付随して精神論も存在する。「夏場でも肌を露出してはならない、するならば最低限」「ペットボトルを直飲みしてはいけない」「全身同じメゾンで揃えなければならない」「ロリィタを着て煙草を吸ってはいけない」「ロリィタを好む者は“可愛くある”ことを一番に考えなければならない」「過剰に丁寧な言葉遣いをしなければならない」「生活力が無ければ無いほど人間らしさが消え“可愛い”存在となる」「ロリィタを着ている状態でファストフードを食べてはならない」……書き出したらキリがない。私はこれらを「糞食らえバーーーーーーカ!!!Fuck off!!!!!!!!!」と思っている。うるせぇ。黙れ。押し付けるな。美学?哲学?可愛くなければならない?全部お前の感情だろ。お前の考えだろ。押し付けるな。そしてそれをロリィタを好む人間代表みてぇな口で喋んな。全部全部全部お前の!!!感情!!!!!!と、思う。

私はノンバイナリーで「少女」になりたい訳ではない。ロリィタを特別な物だと思っているが、あくまで「服」だ。「布量の多いただの服」だ。そこに思想も美学も哲学も不要である。持ちたい者は持てば良い。それを他者に強要するな。「特別」は一種の信仰となる。その信仰は個々人が持てば良い。持つ者も持たざる者も、ロリィタを着る権利はある。

この世は資本主義社会だ。
服が売れなければ服屋は儲からない。そして儲からなければ新しい服は作れない。その行く末は「衰退」ただ一つ。簡単な話だ。猿でも分かる。
ロリィタは相対的に見て特殊な趣味だ。金もかかる。そして市場は狭い。勿論買い手の分母も少ない。そんな中、新規参入者がいなければ?今存在するロリィタ達だけでブランドを支えられるのか?新規がいなくても私は支えられる!と言うのであれば、出る全ての商品を最低でも3つずつ買うくらいしてもらわなければならない。ロリィタは可愛い。だが値段が可愛くない。不景気極まりないこのご時世、更に材料費が嵩みロリィタ服の価格高騰が目立つ。しかし買い手——社会全体における消費者全員に言えるが——の給料は据え置きか下がる一方。上がっている人もいるだろうが一握りだ。

ロリィタ文化は日本が至上であるというのも詭弁に近い。主に中国では安価かつクオリティの高いロリィタ服がたくさんある。私も度々中国のロリィタブランドで服を買っているが、質はかなり良い。デザインも斬新で、既存のロリィタに一手間加えたものが多い。

日本のロリィタは、完全に廃れることは無いだろう。しかし、「絶滅危惧種」には既になっている。それを保護し未来へ繋ぐのは他でもない、今いるロリィタ愛好家と今後参入してくるであろう「ご新規さん」だ。その芽を摘むのは非常に悪手である。
ロリィタメゾンで「非ロリィタを冷たくあしらう」という現象があるが、あれも良くない。ロリィタメゾンに物見遊山でやってきて服やアクセサリーを乱雑に扱う恐れがあるから、という理由は分からなくもない。分からなくもないが、メゾンの人間は「一般人」と「ロリィタ」の区別が完全に付いているのか?答えはNoだ。見ただけでその人間がロリィタか否かなど分かるはずもない。私は上京してラフォーレに行った時、わざとロリィタではない服を着て行った。店員さんの態度を見極めるために。私が中学生の時よりかは軟化していたが、未だに「排除されている感」はあった。ある一つのメゾンは当時と変わらず本当に酷かった。そこの服は絶対に着ないと決めているくらいに。


最後に
私はノンバイナリーで、人形になりたい。なんならヴァンパイアになりたい。人間が嫌いだから、人間ではない存在になりたい。男だとか女だとか、そういった物が嫌いだ。でも、フリルがたっぷりのお洋服は好きだ。持っている男の子のドールにもふりふりのお洋服を着せている。ロリィタを着ながら煙草を吸うし、非常に気を遣いながらではあるがラーメンも食べる。ペットボトルの飲み物だって飲む。一人称は「俺」だ。盗撮されたら中国語や日本語で相手を罵倒することもある。(余談だが、育った環境的に本気でキレている時は中国語の方が先に出る)

「ロリィタはかくあるべし」という時代は終わらせなければロリィタに未来は無い。これは妄想ではない。現実の歴史と経済の話だ。ロリィタを好み未来へバトンを渡したいと思うのであれば、個人の精神論を押し付けてはならない。過去の私はロリィタの精神論に傷付きロリィタから離脱した。今はこうして笑顔でロリィタを着ているが、そうでなかった未来もあるだろう。私がロリィタを着れるようになるまで非常に時間がかかった。それは紛れもない事実である。

高校時代の後輩が「ロリィタを着てみたい」と言うので、今度私のロリィタ服を貸して一緒に出掛ける予定を立てた。自分の大切なお洋服を貸すのは少々ハードルが高いが、彼女達に「ロリィタは布量の多いただの服だ」と教えたい気持ちの方が勝った。これで彼女達がロリィタに目覚め自分で服を買うようになったらそれ以上に喜ばしいことはない。ロリィタは高級品だ。贅沢品だ。だからこそ貸してあげたい。(ノブレスオブリージュという言葉があるが、若干それに近いものを感じている)


高級で、美しく、憧れのお洋服。
しかし、憧れとは理解と対極にある感情だ。
もしこれを読んでいる貴方がロリィタに憧れているのであれば、是非一度飛び込んでみてほしい。ロリィタを「憧れ」で終わらせるのは勿体無い。性別?年齢?国籍?容姿?全て関係無い。誰が何を着ようが自由である。一度きりの人生だ。好きな服を着て、好き勝手に生きてやろうではないか。偶然にも我々が生を享けたこの世界には素敵なロリィタ服がある。その幸福を、多くの人が感じられることを切に願っている。



次回は「ロリィタとフェミニズムについて」を語ろうと思う。お楽しみに。


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