木綿のハンカチーフの歌詞を考察する
橋本愛さんの「木綿のハンカチーフ」が話題になっていると聞きYouTubeを視聴した。1975年に太田裕美さんが歌われたトーンとは対称的に、悲哀に満ちた歌われ方がじんと響く。橋本愛さん以外にも、これまでに多くの方がこの曲をカバーしている。それだけ素晴らしい曲ということだと思う。
特に歌詞は、地元と都会の対比だけでなく男女の対比にもなっている。言葉の選び方が秀逸であり、引用しながら一つ一つ考察していきたい。
1番〜暗雲立ち込める女性視点〜
前半は男性視点、後半は女性視点で歌われていることは明らか。「東」は東京のことだろう。「ぼく」は「旅立つ」と書いてあるが(注1)、おそらくこのときはまだ帰ってくる可能性もあったのではないだろうか。
「はなやいだ」がひらがなであることは注目したい。子どもが字を覚える際、ひらがな、カタカナ、漢字という順で一般的には学習する。したがって、漢字で書ける表現があえてひらがなで書かれていると、そこから幼さ、幼稚さを感じてしまう。
「隣のトトロ」だとまるで隣家にトトロが引っ越してきたかのように感じてしまうだろう。不思議な生き物というより隣人である。「隣」という字の意味が、より具体的になる。「となりのトトロ」とひらがなで表記することで、メイちゃんが「となりのおおきなきにトトロがすんでるんだよ」と言っているような幼さを感じ取ることができる。家の近くに生えている木を、大人は隣と表現しない。ひらがなにすると言葉のもつ意味が少し広くなる。
同様に「はなやいだ」という表記から、きっと「ぼく」はまだ東京を具体的に見たことがない。東京が華やいでいることを知ってはいるが、それがどのような状態なのかイメージができていないのだ。さらに、これから向かう街がどんな街なのかまだイメージできていないゆえに、ワクワクしている「ぼく」の幼さが感じられる。
ちなみに、僕という漢字は1981年に常用漢字に追加されており、まだ一般的な漢字でなかったことから平仮名だと思われる。
「はなやいだ街で」買う「贈りもの」は2番で明らかになる。そもそも「ぼく」がなぜ上京するのか理由は不明だが、ミュージシャンになるという夢を叶えるとか進学のような今どきの理由ではなく、東京に憧れての出稼ぎ、といったところではないだろうか(出稼ぎ労働者数は1972年がピークであった)。華やかな東京で働くこと、きっと地元にはない珍しいものが売られていること、そんな東京で「私」への贈りものを探すこと、これら全てを子どものように楽しみにしていることが伝わってくる。
さて、一方の女性視点はひたすら心配している様子。「欲しいもの」もなく、ただ東京から帰ってきて欲しいと願っている。この時代の東京は新幹線もなく遠い。
そして「都会の絵の具に染まらないで帰って」という表現が興味深い。まず「都会に染まらない」という一般的な慣用句としての意味が含まれているのは理解できる。ここで「絵の具」という表現は人工的な色を印象付けるだけではない。上塗りされるのではなく「染ま」るのだ。絵の具は普通、紙に描かれるときに使用するものであり、「紙を染める」とはあまり言わない。一般的に染まるのは布である。そして、おそらくそれは曲名にもある木綿ではないだろうか。「ぼく」はまだ(そして「私」も)このときは純粋な木綿であり、それが人工的な都会の色に染まっていくことを「私」は恐れている。この歌は4番で初めて曲名が登場するが、1番は伏線だと推測される。妄想が先走っている気もするが、それでもこう考えると辻褄が合う。
いや、この歌詞洗練されすぎてないですか。
2番〜都会が楽しい彼氏と一途な彼女〜
案の定、「ぼく」は都会から戻れず、結局半年が過ぎているのがこの2番。1番では婚約指輪を探しに上京したくらいのテンションの高さが感じられたのに、少し落ち着いてきているように感じる。
「泣かないでくれ」とあるが、おそらくこれまでに泣いていたことを知っているのだろう。電話なのか、それとも手紙に「涙が止まりません」と書いてあったのかはわからない。
「都会で流行りの」という表現がまた絶妙。都会に染まり始めている様子が表現されているし、「私」を想って購入したというよりは「都会で流行」っているから購入したという思考が見える。「私」に怒られそうな言い回しである。
さて、一方の「私」の出だしは2番も「いいえ」で始まる。「海の真珠」はまだしも「星のダイヤ」は非現実なものであり、それらと比べても「あなたのキス」の方が「きらめく」のだ。とにかく帰ってきて欲しいという気持ちが全面に押し出されている。
ただ……出稼ぎできっとコツコツ貯めたであろう給料で買った指輪を、喜ぶこともなく感謝も伝えていない。1番はまだ可愛かったが、このままだと「ぼく」もグレてしまうのではないか。私ならグレてしまう。
3番〜突然上から目線の彼氏と意地悪な彼女〜
上から目線の問いかけから始まるのがこの3番である。「いまも素顔でくち紅もつけないままか」はなんとも意地悪な問いかけではないだろうか。「ぼく」が「私」に対して、どこか"いもったく"感じ始めているのも読み取れる。「いま」や「くち紅」とあえてひらがなである点も「ぼく」が少し怒っていて、いわゆる「幼稚」な状態であることを表しているようにも感じる。
次に続く「見間違うようなスーツ着たぼくの」は「君と違って」という枕詞が隠れているだけではない。おそらく初めてスーツを着ることが明らかになり、正式に東京で就職したことがわかる。かなり「私」にとっては残酷な言葉が続く3番である。あれだけ帰って来て欲しかった「ぼく」が帰ってこない事実を伝えられるのだ。(注2)
対して「私」は2番までと同様、否定から始まる返事をする。2番までと異なるのは「ねころぶ」や「からだ」など「私」も「幼稚」な状態であることが表されている点だ。「ぼく」が帰って来ないことに対して怒っているのか悲しんでいるのか、スーツ姿の「ぼく」を褒めることもしない。
「草」と「木枯らし」がまた毒のある言い回しである。生き生きとした「草」という表現で昔の「ぼく」を、既に枯れている「木枯らし」という表現で今の「ぼく」を表しているとも読める。「私」にとっては都会なんて全く興味の対象ではないのだ。
そして「からだに気をつけてね」はどこかそっけない。本気で心配しているというよりは、マイナスの言葉しか出てこないのはマズイと思い、どうにか絞り出した上辺だけの言葉ではないだろうか。わかるよ、その気持ち。
4番〜ついに別れ〜
4番は「ぼく」の謝罪から始まる。「君を忘れて」は「私」にとってはショックだが、好意的に解釈すれば「ぼく」の正直さや素直さが表れていると見ることもできる。「君のことを想えば帰るべきなのはわかっているのに、楽しい東京に残ることを決めてしまったぼくを許してくれ」という苦悩が見えないこともない。自分でもどうしようもないのだろう。見事に東京に染まってしまったし、今も染まり続けているから「変わってくぼくを許して」なのだろう。
一方の「私」は否定から返事を始めない(別れの4番でようやく否定しなくなったのも切ない)。「都会で流行りの指輪」ではなく「木綿のハンカチーフ」を贈りものとしてねだる(注3)。
今まで一切無駄のなかった歌詞だが、4番になり間投詞が初めて登場する。この「ねえ」という言葉のチョイスが絶妙で、リズム的にも歌詞の意味的にもこの言葉以外に収まるものがない。今にも泣きそうな表情で、なんとか絞り出した「ねえ」なのだ。その様子を、たった2文字で表現されていることが凄まじい。
木綿が純朴なものの象徴として描かれており「ぼく」との対比になっているだけではない。1番の解説でも述べたが、昔は「ぼく」も木綿のように純朴だった。「木綿のハンカチーフ」とは、もう戻ってこない純朴な「ぼく」に涙を拭いて欲しいということなのかもしれない。
まとめ〜重ねる対比構造〜
ここまで個人的な考察をしてきたが、いかがだっただろうか。冒頭、この曲は男女の対比、地元と都会の対比と述べた。
しかし、対比構造はそれだけではない。一途で変わらない「私」と、都会に染まり変わってゆく「ぼく」は単なる男女の対比ではなく、言い方を変えれば頑固さと素直さの対比でもある。さらに、この曲は太田裕美さんのように明るいトーンで歌われることが多く、歌い手と歌詞中の悲しみの底にある「私」の、明と暗の対比にもなっている。橋本愛さんのような歌われ方をして、初めて女性視点では悲しい歌だと気づいた人も多いだろう。(注4)
対比が多いほど良い作品というわけではない。しかし、おそらくこれらの対比構造を意識して松本隆さんは作詞されていたし、筒美京平さんも作曲されていたのではないかと思わずにいられない。「神は細部に宿る」というが、まさに細部まで作り込まれた作品だったのではないだろうか。
注1:歌詞中に「列車」とある。この歌が世に出たのは1975年であり、時代的に「列車」は電車ではなくディーゼル等で動く気動車を指すのだと思われる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/気動車
注2:3番は少し見方を変えると、「彼女にも上京して来て欲しい彼氏」という構図が見えないこともない。しかし、時代を考えると「私」が上京することも難しいのだろう。令和の価値観で歌詞を読むと、違った見方ができるのは面白い。
注3:「東京にはダサい木綿のハンカチーフなんて売ってないでしょう」という皮肉なのかもしれない。「草」と「木枯らし」という表現でも感じたが、結構皮肉や毒のある言い回しをする「私」である。私が欲しいものは、上京する前の「ぼく」も含めて全て地元にある、という主張にも見えないこともない。
注4:橋本愛さんのような歌われ方をすると、一気に女性視点寄りになり惹き込まれる歌になる。ただし、歌われ方に正解があるわけではない。どこに重心を置くかという話である。
※引用については文化庁のサイトを参考にし、適正な引用と考えております。https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/pdf/93908401_11.pdf
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