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「北林って何してんの?」への回答①

しばしば聞かれるこの質問。「文化ビジネスコーディネーター」と名乗って京都で2013年に会社を立ち上げて、おかげさまで7年目を迎えているが、この質問を頻繁に受けるということは得体が知れないやつ、という印象があるからなんだろう。まぁ致し方ないが本人的には極めて考え抜いて世のため未来のためにのみ動いているつもりだ。今年は年齢的には40歳という節目になることもあるので、一度棚卸しの意味も込めて、この40年を少しずつ振り返っていくことで、今の生き様に至る経緯を説明したい。(思いつくままに書いていくのでダラダラとなることはご容赦を)

この世に命を受けたのは奈良県橿原市。奈良だが鹿は全くいない場所だ。地理的には奈良県のちょうど真ん中あたり。(詳しくはこちら
生まれてすぐに両親が離婚したので父親の記憶は全くない。40年間会ったこともない。母の実家に戻って祖父と伯父伯母夫妻その子供である2人の従姉妹と共に育ったので母子家庭だが7人家族だった。祖母は生まれた年に亡くなったので、父と同じく記憶は全くない。こんな家族構成だったので、まるで2人ずつ父親と母親がいて姉が2人いるような感じだった。
祖父は大正2年生まれの婿養子で田原本町という橿原市の少し北にある町から北林の家に来た。農家の三男坊だったので三郎という名前。田舎の農家生まれにありがちな名前の付けられ方だが、祖父は僕の人生に大きな影響を与えた人物だ。大正生まれらしく厳格で男気に溢れた人だった。祖父は家の敷地で養鶏を営んでおり、僕は物心ついた頃から、遊ぶ感覚で餌やりや卵の収穫、鶏糞(肥料用)づくりなどを手伝っていた。祖父は小学校のころから大八車に野菜を積んでは売り歩き、家の収入の足しにしていたという。小学校卒業後のことは詳しくは知らないが家の食い扶持を減らすために軍隊に入ったということを言っていた。戦時は砲兵として南方や満州などを渡り歩いた。馬に乗っている勇ましい写真などやバナナを持っている写真などを見せてもらったことを覚えている。子供の頃に祖父の背中を流していたが、銃創や火傷の後がかなりあった。戦争のことを語っていたとき「運命や」ということを繰り返していた。銃弾や砲弾が飛び交う中で、隣で話していた人が次の瞬間には死んでいるという中で自分は生き残ったり、人との交流の中でその人とのはからいで南方の玉砕地に送られる前に帰国させてもらえたりしたというエピソードを語っていた。子供心に「おじいちゃんが玉に当たってたら自分はいなかったんだ」ということを思った。正確には玉に当たったりはしていたのだが、致命傷ではなかったということなのだが。北林家は親戚含め割とエリート家系だったらしく、戦場ではいわゆる士官だったため、南方に士官として送られてことごとく玉砕したらしい。
こういう話を聞いていたので、自分がこの世に生を受けていることの意味や貴重さを子供の頃から考えるようになっていった。

祖父の話が続くが、戦後は近鉄電車で運転士等をやっていたらしい。その後逼迫していた北林家の娘(祖母)と結婚し、家を建て直した。ちなみに北林家は蘇我氏の子孫に当たる。(詳しくはどなたかが書かれたこちらのブログをご参照)日本に仏教をもたらし、改革を促進したが最後は悪者扱いで殺されるという悲劇の家の子孫というのは結構アイデンティティに影響を与えているかもしれない。なので、藤原氏の氏神である春日大社や藤原鎌足が祀られている談山神社には絶対に参拝しないのはうちの伝統である。まぁ別に藤原氏の子孫に会っても憎たらしいとは思ったりはしないし、延々憎しみの連鎖の殺し合いを続けている世界の各地の民族紛争に比べると実に平和的な伝統かなと思う。江戸期までは日本昔ばなしにも出てくるくらい裕福な庄屋だったが、曽祖父の頃に投機詐欺に遭ったりして没落したらしい。そのため、祖父が婿に来たときは相当困窮していたという。「北林の家は終わった」とも言われたのに婿に来た祖父は相当思い切ったと思う。結果として中興の祖的な立場になるのだろう。

近鉄の社員の給料ではとても家の維持は難しかったのだろう。祖父は当時高値で売れた卵に目をつけて養鶏を始めた。大きな投資をして鶏舎を建てたが、第二室戸台風が襲って崩壊。再び「北林の家は今度こそ終わった」と言われたらしいが、不屈の精神で鶏舎を再建し、養鶏で家を建て直した。全く贅沢もせず、晩酌でビールを飲むことと少し演歌を聞く以外のことで楽しんでいる祖父を見たことがない。生き物を相手にしているということもあるが大晦日の夜と元旦の午前中しか休んでいなかった。

そんな祖父を間近に見て、僕は育った。
(続く)

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