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『moon』と、オルタナティブの体現についての話

 今月、Nintendo Switchで『moon』というゲームのデジタル販売が開始された。元は、1997年にPlayStation専用ソフトとして発売されたゲームで、今回、デジタル販売が実現されるまでの間は、現行のプラットフォームでプレイすることができない状況だった。開発スタジオであるラブデリックと販売を担当したアスキーは、いずれも既に存在しない会社であり、公式的な再販など誰もが予想していなかった中、先のNintendo Directはゲーマーにとって衝撃的な放送となった。

 音楽でいうと、過去にカセットテープで市場に流通した音源が、デジタル販売もストリーミング配信もされることなく、再生機も製造されていないため、いつ壊れるかも分からない古い再生機を中古で購入するなり、借りるなりして聴くしかない…みたいな状況。まぁ、カセットテープやアナログレコードの再生機は、ノスタルジックな雰囲気を楽しむ需要などもあって、2019年現在も製造されていたりするが、ゲームの場合はそうもいかず。

 アナログレコードやカセットテープは開かれた規格であり、SONYだろうがPanasonicだろうがSHARPだろうが、各々の判断で再生機を製造することができる。しかし、PlayStationはSONY以外が製造することはできない。SONYは、現行のプラットフォームであるPS4の製造にリソースを集中しており、旧世代のプラットフォームが再び製造されるということはないだろう。SONYに限らず、任天堂やMicrosoft、その他かつて家庭用ゲーム機を販売していた会社(SEGA等)のプラットフォームも、基本的に製造とサポートは打ち切られている。

 そんな感じで、家庭用ゲーム業界ならではの閉鎖性もあり、『moon』というゲームはゲーム通の間で語り継がれる「伝説のゲーム」、「幻のゲーム」みたいな神秘性をまとっていったようである。というか、まずは『moon』の概要について書き始めた方がよかったんじゃないかと、ここまで書いてから思っているが…あえて、『moon』を取り巻く文化圏・土壌に第一にフォーカスするのは、これから書くつもりでいる内容としては、筋が通っているとも思う。

 僕は、『moon』をリアルタイムでは体験していない。伝説的で、幻みたいなゲーム『moon』について語るインターネット上のゲームファンたちから伝え聞くことで、『moon』の存在を知り、関心を持ち、プレイするに至ったのが昨年のこと。フリマアプリでROMを手に入れて、初代PlayStationの後方互換性を備えるPS3でプレイした。そして今回、1年越しに『moon』の感想と、その間にゲーム業界・ゲーム文化について感じたこと、考えていたこと、思ったことを、文章にまとめようと思い立ったわけである。

 では、まずは『moon』に関心を持った理由についての言語化から始めていこう。

 例えば音楽。例えば漫画。知る人ぞ知る…これを知っているとはヒップな奴だ…みたいな、知っていることがちょっとしたステータスになるようなコンテンツが、各分野にあるものだ。人並みに、そういったものがまとう魅力に惹かれる自分にとって、『moon』はゲームにおけるそれだったと言えるだろう。インディペンデントな制作体制、斬新なゲームデザイン、異彩を放つアートワーク、捻くれていて掴みどころのないテーマ…おまけに、ディスクケースのカバーアートも所有欲くすぐるオシャレな感じ。

 『moon』が持つそういった性質は、1997年という時代背景によって一層克明に浮かび上がっていたのではないだろうか。僕は、1997年には既に自我がしっかりと芽生えていたが、NINTENDO64でヒゲのおじさんと箱庭空間の中を無邪気に戯れているただの純真無垢だったので、1997年の地上を再観測すべく、とりあえず「1997年のゲーム」とググってみた。

 『FINAL FANTASY VII』、『GRAN TURISMO』と同じ並びに、『moon』はあった。いずれも、絶大な支持と知名度と影響力を持ち、ゲームの歴史が語られるときには必ず言及される作品だ。Appleがロールモデルにするほどに冴えまくっていたSONYが振る旗の下に形成された、テクノロジーとエンターテイメントの汽水域。そこが、創造性が花開く生態系として絶頂期を迎えたころ。このタイミングで、ゲームという文化に空間的な広がりが生まれたのだと推察する。

 ジャンルというものを座標だとして、僕は『moon』に "オルタナティブ" という立ち位置を見出す。ここで言うオルタナティブは、音楽で言うところの意味合いを思い浮かべている。だが正直に言うと、音楽業界でこの言葉がどのような文脈で使われてきたのか、実はそれ程よく分かっていない。かつて、初めての自分専用ウォークマンに高揚しつつ、とりあえず何か入れようと、親のコレクションから椎名林檎のアルバムを掘り出し、PCでリッピングしたとき、ジャンルの項目に「オルタナティブ」と現れたのが、この言葉との最初の遭遇だった。

 音楽業界でも、オルタナティブって結局何がオルタナティブなのか…これ!っていう定義の共有がぼんやりしていたりもするという。言葉の持つ意味としては、「主流に対する、そうではないもう一つのもの。代替物」とある。この意味の通りに考えるのであれば、場合によっては、何を指しているのかが不明瞭になってしまうことには納得がいく。まず主流があり、相対的な関係性として、オルタナティブなものが輪郭を示すということだろう。

 空間的な広がりを持つ文化の中で、それぞれの表現の間に分別ある間隔がありながら、巨視的には一つの生態系としての様相を汎く認められる、1997年のゲーム業界。「もう勇者しない」というキャッチコピーとともに『moon』が当てつけるアンチテーゼの向かう先にある作品群こそが、誰しもにとって明瞭に "主流" と認識され、『moon』という "代替物" の輪郭を克明に示していた。

 ここで問う。『moon』は今もオルタナティブであるか?

 生態系は移り変わってゆくものだ。『moon』の輪郭を示していた主流たる作品群が、進化を経て何らかの姿に落ち着いているのか…或いは、滅んだのか。一時期、その作品群にあたるもの(あたっていたと考えられるもの)について、やたらと熱心に考えを巡らしていたことがある。一時期、などとぼやかすこともない。2016年頃、僕は『FINAL FANTASY XV』という作品に、大きな期待を寄せていた。

 「長い歴史を持つFFというシリーズを近代化する」という目標を掲げるFFXVが提示する体験を、ゲームの進化として大いに歓迎していたのだが、発売日を迎える前から、ネット上ではFFXVに対する極めて否定的な反応が目立っていた。僕は戸惑い、ギャップを埋めるべく自分が知る余地があることを探っていた。3年が経過した今、ギャップを埋めることができたのかどうかは未だ分からない。

 この件から言及できることは、僕がネット上のゲームに関する言説を日常的に目にするようになった2000年代後半から現在に至るまで、FINAL FANTASYシリーズをはじめとする国産のRPGを指しての没落を憂う言説が、繰り返され続けてきたこと。そうした言説を展開する人たちにすれば、当然、主流の不在により『moon』の輪郭は示されないということになるだろう。『moon』を作品として肯定し得る条件は、もはや成立しない、と。1997年の当時でしか、『moon』が持ち得る意味は無い、と。

 『moon』にとって、そこから続いてきているゲーム業界にとって、1997年は絶対的なのだろう。だが、1997年の地上を知らない僕がゲームを追い続けてきた文脈の上で、『moon』の体験は答え合わせのような意味を持っていた。1997年の "主流" ありきではなく、自分が触れてきた作品の体験から、『moon』の輪郭を捉えたのだ。

 『moon』をプレイしながら、強く想起していた作品が2つある。1つは、2000年に発売されたNINTENDO64専用ソフト『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』だ。作品全体のモチーフであり、物語の展開に関わる効果的な仕掛けとしての「月」の存在。ゲーム内世界の時間の流れに沿って、決められたルーティーンで行動するNPCに、プレイヤーが能動的に関わることで世界が有機的に変化していくというゲームデザイン。もう、ほぼ『moon』そのものである。

 任天堂は、ゼルダの伝説シリーズの外伝として、自分たちなりの『moon』がやってみたかったのではないだろうかと、個人的に推測している。いや、根拠はない。徹底的に調べ上げたわけでもないが、おそらく、『ムジュラの仮面』の開発者が制作にあたっての着想の元として『moon』に言及したことはない。でも、そうであってほしい。僕の好きな任天堂がそういう任天堂であることは、僕の中で辻褄が合うから。よりによって "moonライク" をやりたがる任天堂は絶対カッコいいし、僕は3Dのゼルダシリーズは全て体験しているが、ゲームとして最も挑戦的で刺激的で有機的な構造を持っていたのは、『ムジュラの仮面』であったと思っている。

 『moon』における、いわゆるメタフィクション的な構造は巧みに設計されており、冒頭から結末まで、美しく筋の通った良質な感情的体験ができる。その背景としての "主流" たるRPG像の存在は、確かに無視できないものだ。だが、『ムジュラの仮面』のような "moonライク" と言えるケースを認められることは、『moon』が、単に "主流" たるRPGの構造を反転したのではなく、ゲームにおける世界のデザインを確かにアップデートしていたという文脈を考察する材料になるのではないだろうか。

 もう1つは、2001年に発売されたNINTENDO64専用ソフト『どうぶつの森』だ。この作品及びシリーズを象徴する言葉、「スローライフ」。これ、『moon』に刺激を受けた任天堂の開発者が消化して排出した「moonみ」な気がする。例によって根拠はない。が、任天堂と『moon』周辺の薄くない関係性としては、幾つか記述できるものがある。

 『moon』を制作したラブデリックという会社は、スクウェアに努めていたクリエイターたちが独立して立ち上げた会社で、彼らには、任天堂とスクウェアとの共同制作として1996年に発売されたスーパーファミコン専用ソフト『スーパーマリオRPG』に携わっていた経歴がある。また、ラブデリックは『moon』の後に2つの作品を制作して2001年に解散してしまっているのだが、設立メンバーである西健一がディレクターを務める『ギフトピア』が、任天堂のパブリッシングのもと、2003年にニンテンドーゲームキューブ専用ソフトとして発売されている。

 この『ギフトピア』は、西健一の経歴を知るファンらによって「ラブデリ系」なるカテゴライズがなされているようで、登場キャラクターの会話で、既存言語の音声を切り貼りしてミックスさせた内容不明の音声に字幕スーパーが付いたりだとか、会話等に、ブラックユーモアを含んだ社会風刺や皮肉、パロディが多いことなどが「ラブデリ系」の特徴とされている。ていうか、ラブデリ系でググったら『ギフトピア』どころかもっとたくさん任天堂が絡む案件が列挙されていたので、当該のWikipediaを参照しておく。

 『どうぶつの森』から話が離れてしまったが、『ムジュラの仮面』に比べると、ゲームデザインの面での共通性を見出すのには若干無理がある。「moonライク2.0」とするにしたって、どうぶつの森はどうぶつの森で、また新たなゲームデザインの提示を成し遂げているところがある。まぁ、どう考えても別ゲーだろう。だからこそ、言及すべきは「moonみ」なのだ。

 シリーズ第1作目の『どうぶつの森』のゲームプレイ冒頭では、一人暮らしを始める主人公がごく僅かな予算で家を購入させられ、多大な額の借金を背負い、その返済が当面の目標となる。『どうぶつの森』は「何をしたらいいか分からない」と言われるタイプのゲームだが、とりあえず茫漠とした目標だけを示され、あとは好き勝手にやりなさいと放り出されるからだろう。

 ここで気持ちを乗せていけるかどうかは、「何も持たずに知らぬ土地で一人暮らしを始める若者」というロール(役)に入り込めるかどうかによるのだと考える。自分の場合は、自らの力でお金を稼ぎ、そのお金が自分の財布に貯まり、自分の意志で使えることが楽しいという方向性で、無意識にそのロールに入り込めていたように思う。

 ここで言う「ロール」とは、ロールプレイングゲームの「ロール」のことだが、『どうぶつの森』は、RPGとはされていない。けれど当初は、RPGとして制作される予定であったとも聞く。物語とそれに伴う明確な世界観の構築が、制作工程から取り除かれたタイミングで、「RPGではない」となったのだろうか。RPGには、プレイヤーがロール(役割)をプレイ(演じる)するための "物語" と "構造が明文化された世界観" が必要とされる。物語と世界観の作り込みが、例えば「邪悪な魔王から世界を救うべく冒険する勇者」というロールに入り込むためのお膳立てになる。

 元はアナログなゲームであったRPGが、デジタルなゲームに落とし込まれていく過程で、「ロール(役割)」の持つ意味は「プレイヤーキャラクター」という機構的な要素に収束され、デジタルなゲームにおけるRPGは、単にRPGと名乗るかどうかというだけのことになっているように思われるが、便宜上は、物語と世界観が作品の主な要素になっていることが、RPGである条件と認識するのが一般的だろう。

 RPGではない『どうぶつの森』には、そういった物語と世界観は無い。しかし、自分が『どうぶつの森』にハマっていた理由は、上述したような「一人暮らしを始める若者というロールに入り込めていたから」という説明がしっくりきている。それは、開発者たち自身が一人暮らしをした経験に由来する、一人暮らしにまつわるニオイが散りばめられているから…だと思っている。

 社会に出たばかりの経済的に非力な立場として、人々に可愛がられたり、世話を焼かれたりする感じ。友だちの家を訪ねると、悪趣味だったりオシャレだったり質素だったり、それぞれの自立した個性が無防備に表れている感じ。一人称が「オレ」のオラついた友だちは朝が弱くて、夜中まで起きていたりする感じ。週末の夜、寂れた駅前でストリートミュージシャンの弾き語りを独り占めする感じ…

 最初は、「釣りをしたら空き缶とかボロ靴とかタイヤとかピラルクーとか釣れるのが一緒!」とか、「釣りが効率的な金策になるところが一緒!」とか書こうかと思っていたのが、結構ガッツリと書いてしまった。釣りに関しても本当に「moonみ」案件なんだけど、そこだけ切り取っても「何じゃそれ」って感じだし…

 伝えたいのは、「お金が欲しい」という単純過ぎる動機で、水辺で釣り糸を垂らし魚影が食いついたらボタンを押すっていう単純過ぎるゲームプレイに没頭しちゃうような、自然な能動性をユルく尊重してくれてる肩肘張らない感じとか、没頭していると、「ピラルクーって何?コレ、こんなとこにいるやつ…?」って思わせてくるような、脈絡のないおふざけ感とか、そういう、全体に漂うテンションやニオイなのである。

 開発メンバーがそれぞれやりたいことをやりたいようにやり、バンドのセッションをするように作り上げられたと語られる『moon』は、物語や世界観の構築をほとんど完全に放棄するようなところまではいっていないものの、問答無用で排除すべき対象が存在するという、RPGにおける当たり前の要素から大胆にそっぽを向いた分の穴を埋めるように、開発者たち自身に由来する "人間味" が、ゲーム内の世界を彩っていたと言えるように思う。

 "人間味" には、開発者たちの個人的な趣味嗜好であったり、彼らが送っていた生活スタイルなどのニュアンスを含む。『moon』のBGMは、プレイヤーが任意で選択した楽曲が流れるようになっている。プレイヤーキャラクターはポータブルミュージックプレーヤーのような物を持ち歩いており、Moon Discと称されるレコードのような物がゲーム中の収集要素になっている。どんな感じの楽曲であるかについては、僕がゲームプレイ中に聴いていたトラックリストを参照。

 映画などで流れる劇伴と呼ばれるような音楽と、日常生活の中で自分の部屋やウォークマンで聴く音楽は、聴かせる側にとっても聴く側にとっても、接し方が異なると思う。『moon』で聴くことができるBGMは、後者にあたる。ゲームプレイの大半で、物語に "伴って" 世界観を演出するための音楽は流れないが、パーソナルに音楽に接するスタイル自体が、『moon』という作品の世界に浸る演出として機能している。それは、開発者たち自身が日常生活を送る中で、リアルに感じていた音楽の存在感、存在意義に由来しているのだろう。90年代のクリエイティブな若者が聴いてる音楽って感じ…するよね。

 『moon』のように、パーソナルに接する音楽の在り方をゲームの世界に取り入れるケースは、2010年代を通してメインストリームの位置を占めることになった作品群に見られる共通の特徴の一つとして、指摘することができる。今や、任天堂プラットフォームの普及の牽引を期待されるIPにまで成長しているどうぶつの森シリーズでは、アイテムの種別としての「ミュージック」が存在し、自宅内にコンポやラジカセを家具として設置することで、任意の楽曲を再生できる。

 最新作が世界で最も売れたゲームソフトとしての複数のギネス記録を持ち、第一作目が『moon』と同年に発売されているGrand Theft Autoシリーズでは、歩行時には環境音のみが流れ、自動車に乗り込むと、カーオーディオからラジオが流れる。音楽も流れる上に、架空のラジオ番組として作り込まれたものが複数用意され、楽曲単位ではなく、ラジオ局単位で好みのものを流すことができる。

 他には、自分が知っている限りでは『Minecraft』と『Fallout4』を同様のケースが認められる作品として挙げられる。また、来月発売される予定の小島秀夫監督最新作『Death Stranding』では、フィールド上の拠点で好きな曲を流すことができるらしい。星野源のPop Virusとか、流せるらしい。あの無機質な鉛色の荒涼としたフィールドで囁かに空気を震わすPop Virus…絶対エモいでしょ。

 2000年代後半から2010年代にかけ、インターネット上で交わされるゲームに関する言説には、「自由度」や「オープンワールド」といった言葉が、先進的なゲームのあり方を語る文脈で頻繁に現れていた。上で挙げた作品群は、そうした言説の中心にあったと言っていいだろう。『Death Stranding』に関しては現時点では未知数だが、2015年に『METAL GEAR SOLID V : THE PHANTOM PAIN』によってオープンワールドの制作経験を積んだ小島秀夫による、意欲的なオープンワールドゲームになることが分かっている。

 『moon』が最初にゲームにおける「自由度」というベクトルを示したんだとか、「オープンワールド」の始祖は『moon』だったんだとか、これをもって声高に唱えようとしているわけではない。まぁ、そう思いたければ思っても別にいいんじゃないかとは思うけど。自由度とかオープンワールドとかの「どこからがそうなの?」って線引き、2019年になったって結局のところボンヤリしていたりするし。

 ただ確かに言えるのは、ゲームは自由になり、自由になったからこそ一層豊かになっていった…いや、もっと豊かになれることに気付くために、自由になる必要があったということ。自由になることは、自由を望むことは、ゲームにとって必要な進化だった。『moon』は、1997年という時代から自由になろうとした。時代から逃れる方法とは、自分たちの領域だと信じられる領域を作ること。 "代替物" として。

 今の今まで、現行のプラットフォームでプレイすることができない状況にあった『moon』は、1997年の地層に残された気泡の中で、「望むべくして望まれる自由」を保存していた。地層から取り出されれば、輪郭は見えなくなってしまうかもしれない。けれど、自由がもたらした尊い進化を、ゲームを愛する者たちは知っているはず。見つけられるはず。

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