コーチングにおける傾聴はどうやって深まるか?
■深さの体系不在の傾聴
コーチングを学ばれている方々は、傾聴の仕方は知っていることでしょう。コーチングを受けている方であれば、傾聴してもらうということの形式的な要件はご存知かと思います。
一方、同じように傾聴をしてもらっているのに、この人の傾聴は表面的なあいづちに終始しているのに、あの人の傾聴はなぜか核心に迫る指向性を持っていて、深い深い内省へ誘うという質的な違いを感じたことはないでしょうか?
実際、コーチやカウンセラーの仕事にクライアントが満足してくれる要素の大半は、そのセラピストがどんなフレームワークに則っていようとも結局は傾聴の質、つまりは深さに依拠すると私は考えてます。
このことは、コーチやカウンセラーの方々も多少なりとも感覚としてお持ちかもしれません。しかし、ではどうやって傾聴の深さを探求すればよいのか、
いや、そのもっと手前の問題として、傾聴の深さという事象自体、どのような構造で引き起こされているのか、実はほとんど語られていないと思います。これはコーチング界における大きな課題の一つだと私は考えます。
つまり、いままでコーチング界において「傾聴の手順の体系」はたくさん語られているにも関わらず、「傾聴の深さの体系」は具体的な形で説明されることがほとんどありませんでした。後者がコーチングの効果性を規定することは明白であるにも関わらず。私は上記のような問題意識に基づいて、このnoteで傾聴の深さの体系を説明することに挑戦したいと思います。
※なお、この論考は私においてもまだ仮説であり、コーチの方々にご覧いただいて、批判的なご意見を含めていただくために公開しております。さまざまなご意見をいただけると嬉しく思います。
■深さの体系を論じるための西田哲学の概要
この体系を説明するにおいては、西田幾多郎哲学を補助線として採用するのが最適だと思いますので、最初に簡単に西田幾多郎について説明しておきましょう。
西田幾多郎は、第二次世界大戦の終戦前までの時代を生きた哲学者です。京都大学哲学科で教鞭をとっており、戦前には代表作『善の研究』が日本国内で広く読まれており、戦時中は軍部の全体主義的な方針に反駁していたため、危険思想としてマークされる存在でもありました。熱心な禅の実践者であり、禅の考え方が哲学の中にも色濃く反映されています。世界的に評価されている哲学者の中で唯一の日本人と言ってもよいかと思います。
さて、西田がまず探求したのは本当の自分とは何かという問題でした。自分とは何か、とはあまりにも自明な問いかもしれません。「自分とは自分にきまっているではないか」と通常人は思うでしょう。でも、物事はそう単純ではないと西田は主張します。
皆さんは本当の自分というものをどう考えるでしょうか。目の前にあるテーブルや本はもちろん自分ではない。着ている服も「自分の一部」のように思える瞬間もありますが、自分そのものではありません。通常、自分と言えば自分の肉体を指すのではないでしょうか。手足は自分の意思通りに動きますよね。髪の毛は自分の肉体の一部ではありますが、肉体的一致という意味で自分そのものかどうか多少あいまいに感じるくらいでしょうか。
でも、西田が探求していくのは本当の自分、もっと正しく言えば、ぎりぎりに限定された自分なわけです。試しに腕を切り落としたとします。すると、神経も切り離されて自分とは別の「物」になってしまう。そうした可能性を斟酌すると、腕がぎりぎりに限定された自分とは言えなくなってしまうのです。足も同様です。
そもそも、手足を切り離さずとも、我々は自分の手足を見ることができる、感覚を感じることができる、のです。それはすなわち、自分の肉体は、自分が観察可能な対象物であるということです。肉体は、自分という視点が客観的に観察する対象物になってしまう以上、本当の自分、ぎりぎりに限定された自分とは言えないわけです。そんなこんなで本当の自分から肉体を除外することができたとしても、まだ私たちの思考や想念が残っていますね。
それでは、思考や想念は「自分」でしょうか。ここで、自分の意識の中を探求してみます。例えば記憶について。記憶は自分自身の人格にかかわる重要な機能です。しかし、私たちはよく物忘れをします。記憶の内容は古いものから薄れていき、新しく経験したものに移り変わっていく、変化するものです。記憶喪失になってしまったら、自分を失ってしまうかというとそうではないですよね。なによりも、思考や想念は、自分という視点が客観的に観察することができます。「いま自分が考えている状態」は、冷静になれば我々は観察することができるのです。観察することができる対象物になってしまう以上、思考や想念も本当の自分、ぎりぎりに限定された自分とは言えないわけです。
それでは感覚はどうでしょうか。世の中には、音の聞こえない人、目の見えない人、痛覚のない人はたくさんいます。それが失われているからといって、自分を失ってしまうかというとそうではないですよね。痛みや苦しみ、喜びのような感情の流れも、冷静になれば我々は観察することができるのです。観察することができる対象物になってしまう以上、感覚も本当の自分、ぎりぎりに限定された自分とは言えないわけです。
さらに、ここまで肉体、思考・想念、感覚とすべて対象物として切り離してきた我々自身の観察する意識ですが、これは本当の自分、ぎりぎりに限定された自分と言えますか?我々はこの意識存在を意識することができる。存在を意識することができるということは観察することができる、すなわち我々自身を観察する意識も対象物になりえるのです。
そうすると、本当の自分、ぎりぎりに限定された自分を探求していくと結局何も残らなくなってしまうのです。西田幾多郎はこれを「絶対無」と呼んでいます。肉体、思考想念、感覚、それらを観察する自己意識を徹底的に除いた時、最後に残る「主体性」、それが絶対無なのです。
ちなみに座禅や瞑想の目的は、端的に言えば上位の意味での、本当の自分を確認することにあります。いわゆる無我の境地に到達すること、これが日々の肉体的な苦痛や感情の煩悶を対象化することにつながるため、リラクゼーション効果があると言われているのだと思います。
さて、自分という存在から思考・分別、身体の感覚を剥ぎ取った状態の中には何があるのか?ここからは座禅の経験を積んでいない方だとイメージがわきにくいかもしれませんが、そこには景色だけがあります。ピーンと張りつめた無我の境地の中で、景色だけでそれ以外のものは何もなく「景色」が即ち「世界」となる。色即是空の世界の風景。その景色を西田は純粋経験と呼びました。
そしてさらに西田は、上記のような純粋経験という視点の中で広がる景色を場所と名付けたのです。
ここで純粋経験と場所の特性について述べておきましょう。たとえば、外を歩いていてふと花の香りがしたとき、「この花は薔薇である」とか「桜ではないな」という思考・分別的な判断が起こらず、「花の甘い匂い」を身体で意識して感じで味わうという感覚も意識せず、そこに自己意識が介在せずに花の匂いと、それを嗅ぐという行為が一体になって起きている状態が、純粋経験です。そしてそのような、主体が消失している、経験する主語が不在となっている景色を場所と言っています。そして、このような主体と客体が消失している純粋経験という視点を持ちうる自己(=絶対無)が定義される以上、私たちは、個々人が独立し、一見相互に対立しているように見えるのだが、実は1つの世界の中に存在していると言える、として主観と客観を越えた世界像を示そうとしたのが、西田の主な主張でした。
■絶対無を起点とした3つの自分
ここからは私の考えになります。
ここまでの本当の自分、ぎりぎりに限定された自分を探求するプロセスの中で我々が感得すべきことは、自己意識を定義する視点というものは多層的に成り立っていて、少なくとも3つの自己があり得ると整理できます。
一つ目はより日常覚醒している場面における自己、すあわち思考・想念などを伴う自己を自己として認識する分別知というあり方です。ちなみにこれは脳科学的には左脳の働きと言えます。
二つ目は、上記のあり方から一歩引いて、すなわち思考・想念を手放して、身体の感覚を丁寧に味わう自己を自己として認識する身体知というあり方です。これは思考の機能を弱めて武道やヨガの実践に取り組んでいるとき、音楽に浸っているとき、フォーカシングなど自己の身体感覚を味わう一人称の心理療法を実践しているときの自己がそれにあたるでしょう。脳科学的には右脳の働きと言えます。
そして上記身体感覚をも手放して純粋経験のただ中に安んじる状態の自己があります。座禅が深まる時に刹那に至る境地と言えるでしょう。
■純粋意識に近接した精神が傾聴の深さを創出する
この3つの自己、自己の定義の仕方、視点が異なるだけで、どれもある意味で自己と言えるのではあります。しかし、上記3つの自己定義のどこが主軸になっているかによって、個人の精神的あり方が変わってくるという事象が生じます。分別知的な自分だけを認識している状況はエゴ(自我、自尊心、利己主義、自我中心主義)的視点が優位になり、一歩引いて身体知、さらに自己の俯瞰して純粋意識に至る中で自我は分散していき、自我中心性が緩んでいくという精神的傾向が出てきます。
このように、個人の精神的態度が純粋意識を意識する度合いが大きくなると、分別知的な自我が緩んでくるわけですから当然、自己中心的な意識のあり方は後退し、自他分離の緩い、あるいは自他が融合しているように感じられる精神的態度が涵養されていきます。この精神的態度が、傾聴の深さにつながると私は考えています。
例えば、コーチが自我的な視点でクライアントの話を聴くことがなくなると、コーチ側が持っている準拠枠やバイアス、価値観を、コーチ側の自我に基づいて運用することがなくなり、クライアントへの誠実性が増すことになります。
また、コーチが思考・想念を駆使してクライアントの話を頭の中で整理して固定のフレームワークの中に押し込めることがなくなり、より虚心坦懐にクライアントの気持ちを受け取ることができるようになるでしょう。
また、コーチ側からしたクライアントとコーチの一体感が強まれば、コーチは「自分が評価されるために」とか「嫌われないために」という自我的視点ではなく、「いま・ここ」の渾然一体とした空間の中で、建設的な何かを探求することにピュアにまい進することができるようになります。
もっと言えば、これは確かなエビデンスはないのですが、コーチ側からしたクライアントとコーチの一体感が強まっている状況では、コーチ側のクライアントに対する観察力は極限まで高まり、クライアントの感じていることの微細な感情に至るまでを汲み取ったうえで、非常に示唆に満ちた直観的コメントをクライアントに投げかけることができる頻度も高まると感じています。
このような形で、純粋意識に近接した精神的態度が傾聴の深さを創出すると思うのです。であるがゆえに、傾聴の深さを探求するとすれば、求道者は純粋意識に意識的に感得するトレーニングを重ねればよいということになります。
■武道の根本も純粋意識への接近である
話はずれますが、純粋意識への接近は、傾聴の深さの探求のみならず深いレベルで武道一般が指向していることでもあるようです。
合気道の先生で哲学者である内田樹氏は「武道の根本にある原理は、武道は勝つことを欲望する主体の廃絶を目指す、ということである。」・「勝利することを喜ばないような闘争主体を作り上げることを究極の目的とするような身体技法の体験、それが武道である。」と述べました。武道が目指す根源的ありかたも、思考・分別的な自我に留まることなく、身体知に目覚め、純粋意識を感得することに主眼が置かれているようなのです。太極拳の先生は、純粋意識の概念は太極拳が目指す”太極”という概念と非常に近しいものがあるとおっしゃっていました。
太極拳は相手がいなければ成立しません。先生は、太極拳における自己実現(=太極の感得)が拓けてくるのは、自分がうまくいくためには、他者を思いやり、理解し、尊重することが最も大事だということを、身体と心の両面で体感理解することによると指摘しました。とすれば、純粋経験に接近していくということは単に深い傾聴をするためでも、武道の達人になるためでもない、人が充実した人生を送るために必要な普遍的な知恵ではないかという感覚も芽生えた次第です。
■具体的に何をすれば深い傾聴ができるようになるか
それでは、深い傾聴ができるためには何をすればよいのか、既に記載しましたが、純粋経験を数多く体験してその状態に安定して親しむことができるようになることが大事だと思います。純粋経験に至る方法はたくさんあります。座禅を組む、瞑想を行う、武術の鍛錬に励むことは、純粋経験を感得することを直接の目的にしている側面があるので、適した実践だと言えると思います。
また、身体感覚を意図的にオープンにする形での自然散策や音楽鑑賞、芸術鑑賞もかなり有効である印象をもっています。わざわざ「身体感覚を意図的にオープンにする形での」と書いたのは、音楽を身体で感じることなく「ギュンター・ヴァント指揮のブルックナーは最高級の音楽だと知っていて、その特徴は云々・・・」など思考・分別のレベルで音楽を消費してしまっては純粋経験の感得と逆行した鑑賞になってしまう恐れがあると思っています。できるだけ、思考・分別を排除した上で虚心坦懐に味わう姿勢で鑑賞いただけると良いのではないかと思います。
分別知と純粋経験の間にある身体知と親しむとしたら、ユージン・ジェンドリンが提唱したフォーカシングという一人称の心理療法は非常に有効だと思います。ドイツの精神科医シュルツが開発した自律訓練法もすばらしい実践かと思います。
上記は純粋経験に到達するための実践ですが、それだけで深い傾聴が安定的にできるようになるとは思いません。純粋経験の感得を起点にして、身体知⇒分別知と自我意識の方に意識を展開し、クライアントに対して応答(あいづちや質問、直観の伝達)を行うところまで含めてコミュニケーションですから、最後は純粋経験で得られたインサイトを分別知のアウトプットである言葉で伝えていく必要があります。そのための表現力や、表現のための物差しを持つ必要があるでしょう。
そのためには、代表的な心理学、クライアントがビジネスパーソンだとしたら、ビジネスに関する知見・経験を豊富に有していることが、分別知で言葉を紡ぐためには不可欠であることは言うまでもないでしょう。
結論としては、分別知も、身体知も磨く必要があるし、純粋経験に親しむことも重要なのです。端的に言えば、分別知と身体知、そして純粋経験を縦横に移行しながら、クライアントの思考・内省のバイオリズムと歩調を合わせることができるコーチは、深い傾聴ができうるものと言えるのだと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?