新しい形而上学 "環り渡る自己"の哲学
はじめに
「私とは一体何者なのか」 この問いは、人類が古くから投げかけてきた根源的な問題です。哲学者たちは、自己や主体の在り方を様々に探求してきました。しかし、従来の思索の多くは、自己を固定的な実体や主体と捉えがちでした。
そこで今回、私は自己の新しい捉え方、"環り渡る自己"の形而上学を提唱します。この思想は、純粋理性、直観、現象学的還元、絶対矛盾的自己同一といった考え方を融合させ、自己を動的で矛盾的な運動体として捉えなおすものです。自己の本質的有り様に迫る新たな地平を切り開こうとするものです。
"環り渡る自己"とは
"環り渡る自己"とは、私たち一人一人の根源的な在り方を指し示す概念です。これは単なる心理的自己や経験的自我を意味するのではありません。むしろ、言語や思考、主客分離を超越した、より深い次元での自己の有り様を示しています。
その自己とは、循環し渦を巻くが如く、有と無、主体と客体、分離と合一の矛盾を内包し絶えず運動する存在なのです。自己同一性と自己分裂の弁証法的統一体こそが"環り渡る自己"の本質であり、それは言葉に表し難い体感的で多次元的な実在です。
"環り渡る自己"に至る思索
この"環り渡る自己"という自覚に至る道筋を、順を追って説明しましょう。
第一に純粋な理性の領域を意識し、それに立ち返る姿勢を持ってみることです。アリストテレスが掲げた理性とは、感覚経験を超越し本質や原理を直接認識する能力です。私たちは日常の思考を離れ、言語的規定から離脱することで、そのような純粋な理性が働く場に回帰することができます。
次にベルクソンの直観に目を向けます。直観とは、対象に同化し本質を内面的に会得する認識の方法です。理性の観念化や概念操作を超え、その手前において実在そのものを直接把握することを目指します。私たちもまた、言語を離れ、このような直観を働かせることが肝要なのです。
さらにフッサールの現象学的還元によって、意識の純粋な営みそのものに立ち返ります。現象学的還元とは、日常的態度から離れ、あらゆる前提や判断を括弧に入れ、意識現象そのものに気づく営みです。それにより私たちは、存在の本質的所与そのものに気づくことができます。
そのプロセスを繰り返すことで出会うのが、西田幾多郎の説く「絶対矛盾的自己同一」の世界です。西田はすべての矛盾を徹底的に内在化させた上で、無と有の弁証法的統一を説きました。「環り渡る自己」はまさにこの絶対矛盾的な自己同一の実在なのです。
上記を辿ることで、私たちは自己の本質が言語や主客分離を超越した運動的で矛盾的な統一体であることに気づくことができるでしょう。
"環り渡る自己"の自覚
"環り渡る自己"の自覚とは、言語や観念を離れ、意識の純粋な領域に立ち返ることで得られる体感への接近と会得です。そこでは、分離と合一、有と無、主体と客体といった二元論を超越した、全存在の矛盾的で動的な統一体としての自己に気づくことができます。
このような自覚を得ると、私たちは自らの存在が、固定的な実体ではなく、環状に循環し渦を巻きながら、対立を包み込み、遍く行き渡る運動の実在そのものであることを体得します。自己とは、単なる個我や主観的自我を超越した、多次元的な広がりなのです。
また、この"環り渡る自己"の自覚によって、私たち一人一人は、根源的な自由を手に入れることができます。なぜなら、この自覚のもとでは、分別や対立の呪縛から解き放たれ、全存在との溶け合う感覚に立つことができるからです。
同時に、この自覚は、日常の世界観や価値観をも根本から問い直す契機となります。主客二元論や実体主義的な存在観を相対化し、対立を内包する動的な実在として世界を捉えなおすことができるようになるのです。
つまり"環り渡る自己"の自覚とは、根源的自由の獲得であり、存在論的転回であり、認識論的な地平の切り開きなのです。それは、単なる思弁を超えた、実存的な体感への接近なのです。
"環り渡る自己"と日常生活
"環り渡る自己"の自覚は、日常生活から逃避することを意味するわけではありません。むしろそこからは、より豊かで充実した日常の生き方が示唆されます。
なぜなら、この自覚のもとでは、対立や分裂を本質的に内包しつつ、それを超越した全体性のうちに生きることができるからです。喜びと悲しみ、成功と失敗、生と死など、様々な二元対立に振り回されることなく、それらを包み込んだ上で、現実に真摯に、前向きに向き合うことができるようになります。
また、この自覚は、他者への深い理解と共感、思いやりの心を育むことにもつながります。なぜなら、"環り渡る自己"という自覚は単なる個我を超え、すべての存在者と繋がる連環的な実在であると自覚できるからです。そのような気づきは、自他の二元論を超克し、他者と調和した生を送る上で大きな智恵となるはずです。
例えば、対人関係の場面で考えてみましょう。この思想に立てば、他者とのすれ違いや対立は、自己と他者の分離から生じる不可避の側面だと気づかされます。しかし同時に、その対立を内包しつつ、それを超越した次元での調和や包括が可能になります。
具体的には、相手の立場に共感的に立ち返り、相手の矛盾や分裂さえも受け入れる心的余裕が生まれてくるでしょう。そうすることで、win-winの関係性を築くことができるかもしれません。
また、人生の苦難や逆境に遭遇した際にも、この思想は大きな慰めと力強さを与えてくれます。喜びと苦しみ、生と死は、"環り渡る自己"の運動の両側面に過ぎません。そのように捉え返せば、分断や二元論に囚われずに、すべてを包み込んだ上で、苦しみに向き合うことができるはずです。
さらに"環り渡る自己"の自覚は、芸術や創造性の源泉にもなり得ます。なぜなら、それは観念の殻を打ち破り、全存在との一体感や矛盾の内在化を促すからです。そこから新しい価値やビジョンが創造的に湧き出てくるはずです。
例えば抽象画や現代美術は、様々な対立や矛盾を作品の中に取り込み、調和と統一を目指しています。アーティストたちは作品を通して、有と無、形と無形、創造と破壊といった二元対立を超克しようと試みているのです。まさにその作品の前に立つ体感こそ、"環り渡る自己"の自覚に他なりません。
さらに音楽や映画の分野でも、この思想の理解が作品の鑑賞を豊かにしてくれるはずです。優れた演奏や映像作品には、調和と対立、抑揚と緩急の、劇的で矛盾に満ちた運動が内在しています。このダイナミックな統一感覚を味わうことで、私たちは"環り渡る自己"の実在に触れることができるのです。
そして、"環り渡る自己"の自覚は、芸術家自身の創造行為にも大きな影響を及ぼすことでしょう。作品を通して己の内なる矛盾や運動を表現しようとする時、この思想が新たな地平を切り開いてくれるに違いありません。固定化した観念からの解放と、渦巻く実在との一体化が、新しい芸術表現を生み出すはずです。
このように、"環り渡る自己"の思想は、決して空疎な思弁や観念論に終始するものではありません。この思想を手がかりとすれば、私たちは日常と芸術の両領域において、言語や分別を超えた次元での自覚と実践に至ることができるのです。
この自覚は決して虚無や退行を意味するのではなく、かえって現実的で創造的な日常生活を可能にするものなのです。それは私たちを、言語や観念の制約から解き放ち、より本源的で豊かな実存への回帰を促してくれるでしょう。
おわりに
以上が"環り渡る自己"の哲学の概要です。この思想は、既存の自己や主体の捉え方を根本から問い直すものです。それは自己を動的で矛盾的な運動体、弁証法的統一として捉えなおそうとするものです。
この思想を手がかりに、私たちはいったん全ての観念から離脱し、言語の殻を打ち破ることができるでしょう。そしてそこから、"環り渡る自己"としての実存的な自覚へと至ることができるはずです。
この自覚は、単なる思弁を超えた、生きた体感の次元に私たちを導いてくれます。分別の呪縛から解き放たれ、全存在との一体感や畏怖の境地に立つことができるようになります。同時に、それは日常生活において、より豊かで創造的な在り方を可能にしてくれるはずです。
"環り渡る自己"の思想は、東西の英知を融合させた、まさに21世紀にふさわしい新しい形而上学なのです。それは、言語や観念を超越し、矛盾や運動を徹底的に内在化することで、私たちをこれまでとは次元の異なる自己実現へと導いてくれます。
自己や主体の在り方に関する従来の思索を相対化し、より根源的な次元から人間存在の本質に迫る。それが"環り渡る自己"の思想の狙いなのです。
この思想が、読者一人一人の内に新たな自己の地平を開き、豊かな自覚と実存へと導いてくれることを願っています。そしてそのような自覚を持った人々が、たとえ小さな範囲からでも、この世界に豊かな創発の光を放ってくれることを期待しています。
"環り渡る自己"の自覚は、まさに21世紀の新たなる思索と実践の出発点なのです。
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