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被虐のマスク

「自分にばかり執着して、自分の方にしか目が向かないから、逆に大事なものを見失う」その通りだと、頭は納得するが、肉体には沁み込まない。今まで頭に気に入られようと、無理して強がっていたが、「自分にばかり執着してはいけない」という考えを押し付けるのもよくないという肉体派の声が高まった。肉体派と反肉体派の、お互いににらみ合う消耗戦にも疲れたので、停戦協定を結んで和解した。その和解の儀式の後には、口の中で蕩けていくソフトクリームのような、妙に甘美な皮膚感覚が残った。
 
停戦協定を結んだという心の油断からか、誘惑の種が芽吹き始める。ゴミ屋敷になる、そのきっかけになる最初のゴミのように。習慣になったマスクを外したがらない子供が増えているという。まるで顔パンツになって、それを外したら自分の恥ずかしいところが丸見えになるのを恐れているからだという。マスクに執着する点では同じ私の心に、その芽は伸びる。

コロナに関係なく、マスクをはめ続けられる人たちは、ある意味で私のあこがれだ、野球少年にとっての大谷翔平のような。ただ私には、皆がしているのに、自分だけしないのは恥ずかしいとか、周りから批判されるのが怖いからという理由で自分の言動を決めている群集は、香水と間違えて、殺虫剤を自分に吹きかけているように見える。ウイルスの感染予防に科学的に効果があると信じたこともない私が、マスクに執着するのは、マスクをはめたときの、触角を失ったコオロギの閉塞感、じわりじわりと耳の周りを締め付けるゴムひもの皮膚への浸蝕。その感触から、どんな自分の姿が湧き上がってくるのかを見たい好奇心からだ。
 
ゴムひもの控えめながらも、張り付いてくるタッチ、表情を変えるたびに柔軟に肌に寄り添い、与えてくる刺激。その刺激に図らずも反応して、荒げる皮膚呼吸。ゴム紐から逃れられないとわかりながらも、あがらうむなしい抵抗。抵抗すればするほど、増す拘束感。どうしようもない諦めとともに、心のどこかで望んでいた安どの喜び。喜んでいるのは、スクリーン一枚隔てて傍観者を決め込む自分か? 
 
呼吸をするたびに肺に入る制限された量の空気、いっそう貴重に感じられるマスクの布越しの空気。空気の有難さで共有できるエベレストに無酸素で登頂した登山家の気持ち。自らの意思で、身体の機能を制限されるという不自由の中に自分を置く冒険家。自由を奪われた皮膚の下から立ち上がってくるのは、慣れ親しんだエロティックな被虐感か、無意識の奥に隠された、得体の知れないものから自由になりたいという心の叫びか?もっとドーパミンを体中から溢れさせたいという飽くなき多幸感への渇望か?
 
被虐感に心身を打ち震えさせ、そのまま欲望の塊とともに溺れていくのか、欲望だけがゴムまりのように弾じけて、それをしっかり捕まえておくことはできないのか?肉体を自由にコントロールできない歯がゆさに、被虐の喜びが甘美な誘惑をしかけてくる。被虐の海に自ら飛び込みたくなる衝動を抑えきれなくなる。その衝動とどう折り合いをつけるか苦しむところにまた被虐の世界があらわれる、甘美な皮膚の記憶とともに。どこへ行っても被虐の世界の住人という楔からのがれられない。

なぜ飛び込まないんだ。崖っぷちにたたずむカエルのように、哲学者ぶって水平線に沈む夕日なんか眺めている場合じゃないだろう。下の世界を見てみろ。苦しそうな表情を浮かべているが、何かが心から解放されるという期待に溢れた、痺れるような喜びがその裏に見えるだろ。仲間に入れてもらえよ。海が怖い?思い出せよ、昔の自分の姿を。どこかの国の王子様だった頃の話じゃないぞ。オタマジャクシとしてずっと水の中で暮らしたときの皮膚呼吸の記憶があるだろ。大丈夫だ。その世界に没頭している限り皮膚呼吸を邪魔するものはない。だがやがて、雑念が入って皮膚感覚が鈍り、解放されるという期待が一挙にしぼむ。期待が大きいぶん、それだけ失望も大きい。

下の連中は、失望を味わったあとも、それにこりずに、そこから抜け出さないでいるのか?どうしてだ?心のひだに無意識に植え付けられた、欠乏感がしっかり根づいているからだろ。欠乏感の蔓を外に向かって伸ばそうとしている。外に向かいさえすれば、心の欠乏感が癒されるかのように。癒されるはずの欠乏感なんて、自分が作った幻想の中にしかないのに。もうすでに周りに分け与えられるほど満たされているのに。同じ心のひだに、宝の山が見え隠れしているのに。

微かに光が差し込んでくる。頭上の水面からだ。目を凝らしてもっとはっきり見ようとするが、誰がが透明の布で目隠しをする。さらに、それを取り除こうともがくこちらの手と足を、目に見えない縄で縛る。鬱屈した思いを心から解放するために、何かにすがりたいという気持ちを意識から振り切りさえすれば、それに気付けるのに。体のどんな動きも自由になることに、もうすでに自由になっていることに。それをわかっているのに、動けないふり、見えないふりをしている。そのうち、本当に動けなくなる、見えなくなる、意識も薄れてくる。

こちらに笑いかけてくる透明の布越しに見える馴染の顔。その聞き覚えのある声が耳に届く。「お前が見ているのは、鏡に映る自分の姿、自分の世界だ。その鏡の中に、自分が信じていることを裏書きする印を、映し続けずにはいられない。叩き落しても割れない鏡。その現実を受け入れたからこそ、白雪姫も紆余曲折ありながらもハッピーエンド。さあ、早く支度しないと会社に遅れるぞ。ああすまない、つい忘れてた、お前マスクしないから首になったんだよな。」


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