(12)坊屋三郎という人/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)坊屋は北海中学を卒業。上京して日大宗教科に入学したが、歌手を志して芸術科へスライド。
▶︎坊屋の進路にまで触れたところで、坊屋の人物について見ていきたい。
【行動力とマメさ】
これまでたびたび引用してきた坊屋の自伝『これはマジメな喜劇でス』からは、彼の人柄がよくわかる。
常に活発で行動力があり、まめで人脈が広く、そして自分の信じた道を一人で切り開いてゆく力強さは驚くばかりだ。
あきれたぼういず活動当時、雑誌『モダン日本』であきれたぼういずの放談会記事が組まれているが、ここで坊屋がこんな話をしている。
これを読んで、私は昔読んだ『漫才入門』(元祖爆笑王)の一節を思い出した。
漫才のネタを作る人間なら、好奇心を旺盛に持ち、現場を見よ。夜中に寝ていて、自分の家の前でサイレンが鳴ったら見に行け…(筆者意訳)
坊屋はまさに、この「サイレンが鳴ったら見に行く」人種である。
怪漢に睨まれていながら、その後ちゃんと裏事情まで情報を集めているところは流石だ。
また、彼の人脈の広さ、人付き合いのマメさは、この後の彼の活動にも活きていくことになる。
北海中学弓道部の後輩達の面倒を見てやっているところなどにも、そんな一面が表れているが、のちに北海高校となった母校に弓道場が新築された際にも見学に訪れている。
そして、後にボーイズバラエティ協会の会長として後輩達の面倒をみてゆくことになる。
【実相寺と坊屋】
そんな坊屋について、実相寺の夏目シゲ氏からうかがった忘れられない話がある。
2000年前後、坊屋が亡くなる少し前に夕張を訪れており、実相寺にも立ち寄っている。
坂の上にある実相寺の入り口は階段になっており、ここでふとよろめいた坊屋に、シゲ氏が手を貸そうと差し伸べると、「いいから」とその手を振り払われたそうだ。
それだけのエピソードなのだが、シゲ氏の語る様子からは、そのときのそっけない坊屋の様子が浮かんでくるようだった。
そして、それまで知らなかった彼の一面に触れたようでヒヤリとした。
生まれてすぐに養子に出され、16歳のときに養父は亡くなり、住職を継いだ夏目家が親代わりとなった。
寺を継ぐために上京するという坊屋を支えてくれた夏目家ではあるが、結局はそれを振り切って歌手を目指した坊屋にとって、実家である実相寺はどんな存在だったのだろうか。
大学進学後、何をしているのか連絡もなかったという坊屋から、数年後突然、実相寺にレコードが届いたという。
あきれたぼういずのレコードである。
実相寺や檀家達から猛反対に合う中で歌手の道を選んだ坊屋だったが、そんな自分自身の生き方を、認めてほしかったのかもしれない。
【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号
『漫才入門』元祖爆笑王/リットーミュージック/2008
『協学会誌』私立北海中学校(校内誌)/1928〜1931
▶︎(4/30UP)札幌初のレヴュー団
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