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(6)益田喜頓という人:益田喜頓②/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
益田は映画と野球に夢中になる少年時代を過ごしていた。

▶︎今回は益田の人物像について。

【飄逸味】

あきれたの益田喜頓は飄逸な味を持っている。これが芸の研究家で、欧米のヴォードビリアンを仔細に学んでいる。

「えんげい一皿料理:あきれたとミルク」/都新聞・1940年5月12日

あきれたぼういず活動当時の新聞を見ていると、益田のキャラクターについて「飄逸味」という表現がよく出てくる。
まさに益田にぴったりの言葉だと思う。

しかし彼の場合、どんなにナンセンスなギャグをやっていても、
その飄逸味の中にどこか温かみのあるペーソスのようなものを纏っている。
それは彼のこうした生い立ちからくるものなのかもしれない。

【消えトン】

益田には、「益田消えトン」なる呼び名があった。坊屋はのちにその由来を語っている。

 どうかするとすぐいなくなって、「益田消えとん」だ、というくらい、蒸発しちゃう。あきれたが、のちに関西にひきぬかれてから、一時益田喜頓がやめたことがあるんですが、これも実はいなくなっちゃったの。放浪癖というより、なにかそういう自分勝手なところがあった。いや、舞台の時間なんかにはまったく逆で、一番はやく入って、メーキャップも一番はやくすませてた。やっぱり、なんというか、自分でこう思ったら、相談も何もしないでやっちゃうというタイプだったんだろうなあ。うん、気分屋だろうね。

坊屋三郎「ちょいと出ましたあきれたぼういず」/『広告批評』

とくに大勢人の集まる場が苦手で、
「どんなパーティーでも10分といない」という。
益田の経歴を追っていても、ところどころ、ふと姿を消してしまうことがある。
益田は筆まめで著書や雑誌への寄稿も多いので、手がかりは多いはずなのだが……。
当時の新聞等で追いかけてみると、いつのまにか一座を抜けてしまっていたりして、
その後どこで何をしているやらわからない。
このnoteでもたびたび、空白のまま断念している部分があることをご容赦願いたい。

しかし、坊屋が言うような「気分屋」とは、少し違うようでもある。
「関西にひきぬかれてから、一時益田喜頓がやめた」ことについては、その回で詳しく書くが、
このときのことも益田は自身の著書で、あきれたぼういずを抜けた理由、彼なりの考え方を綴っている。
一貫した自身のこだわり、芯のようなものがあって行動しているようである。

ただ、その考えを坊屋らに打ち明けたかどうかは微妙で、「相談も何もしないでやっちゃう」という点は当たっているようだ。
チームの中で方向性の違いを感じたとき、
自分の意見を語って聞かせるよりも黙って去ってしまう、という性格だったのかもしれない。

実際、益田は物静かで口下手な人物だったようだ。しかし彼の著書を読むと、心の中では深く広い考え、芝居や芸に対するこだわりを持っていた人だとわかる。
静かで深い人だと思う。

トンちゃんは気が小さくて、お人好しで淋しがり屋で、従ってこの男ほど善人で人懐ッこくて、気前のよい旦那はいない。

旗一兵「四つの素顔」/(日本劇場1947年8月公演「アロハ」パンフレット)

【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1996
『広告批評』1992年10月号
都新聞/都新聞社


▶︎(3/19UP予定)夕張が生んだヴォードビリアン、坊屋と芝

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