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なぜ僕は「東京オリンピック開会式」を、手放しに楽しめなかったのか。

令和三年。7月23日、日本時間の20時。ついに東京オリンピックの開会式が執り行われた。もちろんSNS上もその話題で持ちきりで「感動した」という声が多くみられたように思う。まず、僕個人の意見を言えば「まったく楽しむことのできない開会式」だった。

それはひとつひとつの演目や演出の問題ではない。それら自体は、個人的には面白かったし、こんなトラブルだらけで、時間も予算もたりない中、開会式を実現した人たちの苦労を想像し、賛辞を送りたいと思う。もともとファンであった「がーまるちょば」のリアルピクト?は、中でも特に好きなパフォーマンスだった。

楽しめない理由は、そんな表層的な意味合いではなく、大会の是非というもっと根深いレイヤーに潜んでいる。この大会を盛り上げることそのものへの懸念が拭えないかぎり、どんなに素晴らしいクリエイションだろうと、僕は喜ぶことも楽しむことも感動することもできない。盛り上がれば盛り上がるほど、楽しくなれば楽しくなるほど、その闇は濃くなり、心は谷深く落ちていくことになる。

この大会が開催されることで、間違いなくコロナウィルスの感染者は増えるだろう。盛り上がるほど増えていく。少なくとも減る要因には絶対にならない。まだまだ「未知」のウィルスだ。日本の感染者/死者は世界と比較してまだ少ないものの、世界で2億人が感染し、すでに400万人が亡くなっている。日本でこの先、どうなるのかなんて誰にもわからない。今だって医療現場は大変な思いで戦っている人たちがいる。

ここまで起きてきた様々な問題、ジェンダーに関すること、人権意識に関すること、それらをなんら総括も反省もなく、責任の所在も曖昧なまま、次々と首を挿げ替えて行われた開会式には、多様性の象徴であるレインボーが散りばめられ、これ見よがしに医療関係者を称えている。医療関係者をより追い詰める可能性のある祭典でだ。方や街の明かりは消え、飲食店は開くことも許されない東京の夜に、オリンピックの聖火が華々しく灯る。その陰影をどう楽しめというのだろうか。

もう始まったんだから、みんなで一丸となって前に進もう。盛り上がっているところに水をさすな。スポーツにも選手にも罪はない。運営に携わる人たちに敬意と賛辞を。僕はこのような言説を、とても嫌悪する。そこには「うるさいこと言ってないで参加しろ」という圧力が潜んでいるからだ。そのような国家レベルの「一体感」「一丸」という全体主義的な空気には断固NOをつきつけたい。それらはやがて、個人の意見や感情を否定していくことにつながっていくと考える。

僕自身、人生で最も打ち込んだものはバスケだったと考えているし、そこから多くの哲学を学んだ。今はボクシングを7年ほど続けている。運動したあとの水より美味しいものはない。スポーツは、音楽に並ぶ、人類が生み出した最大にして最高の発明だと信じている。

だからこそ、スポーツの祭典を楽しめない現状に、ものすごく鬱屈した感情を抱いている。あと一年延期できていたら、まったく違う感想を抱けたかもしれない。画面の前で、もしくは会場で、この祭典を祝福し、選手たちに惜しみないエールを送れたかもしれない。

ちょうど7ヶ月前の年末、佐々木氏がクリエイティブディレクターに就任した際に僕はこのようなツイートをした。この頃はまだ延期、もしくは中止の可能性を感じ、信じていた。

僕はクリエイティブ・ディレクションというのは、そういうものだと信じている。大会の意義や意味、そういった根っこ、本質的な方向性を考えて決断をすること。どうすればこの大会が最高のものになるのか、その根っこに立ち返ることをするべきだった。しかしそれはまったくと言っていいほど行われてこなかったように思う。同時に、それは広告業界に大きな問題があったとも考えている。

想像してみてほしい。もしあの開会式に満員の観客がいたなら。もしあの開会式が様々な問題に向き合った後に、きちんと準備されたものになっていたら。もし選手たち自身も不安なく競技に集中できる環境であったなら。まったく別の五輪が開催された可能性を、誰もが祝福できたであろう祭典の可能性を。

すべてはもう「たられば」にしかならない。まさに「後の祭り」だ。でもそうずっと訴え続けてきた人たちが確かにいて、僕はその人たちのことを忘れずに支持していたい。

多くの問題と課題を抱え、今も虐げられている人がいるこの社会で行われる「平和の祭典」を、僕は決して手放しに楽しむことなんてできない。

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