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大学で悶々としているあなたへ

こんなはずじゃなかった、と思っているかもしれない。

大学というのはもっと華やかで楽しげで、友だちが100人くらいできて、彼氏とか彼女がとなりにいて、それはそれは人生の夏休みかのような世界が広がっていると思っていたかもしれない。

けれどもちろん、現実は甘くない。ユートピアは存在しない。大学に入ってから、その事実にボコボコに打ちのめされた人がいるのではないかと想像する。もしかしたら、そんなバカな人間は、僕ひとりだけなのかもしれない。

僕は短期の猛烈な受験勉強を経て、奇跡的に第一志望の早稲田大学理工学部に合格した。希望に満ちた春を迎え、これで「あたらしい自分」になれるのだと信じ、心を踊らせていた。しかし、大学の入り口で待ちうけていたのは「何者でもない自分」だけだった。その事実は僕のこころを完全に折った。「あ、こころって折れるんだ」と思ったことを今も覚えている。

やりたいことも見つからず。誰からも必要とされることはなく。適度に授業を受け、適当にバイトをし、サークルにいった。意味のない飲み会がとにかく嫌いだった。高田馬場駅の広場で酔っ払って校歌を歌っている人間を心底軽蔑した。そんなやつだから、友だちらしい友だちは終ぞできなかった。

そこで僕は、人生ではじめて「本」というものに出会う。

大学の生協に並んでいる本を片っ端から読み始めた。そこには多様で豊かな世界が広がっていた。新鮮で深淵で広大で、スリリングで陰鬱でエロティックだった。しかも一杯のビールよりも、一冊の本のほうが安いのだ。授業中だろうと電車だろうと、どこにいたって、本を開けば (その間だけは ) 現実から逃げることができる。最高の逃げ場所だった。

僕はくだらない現実から逃げ続けるために、本を読み続けた。読んで読んで逃げ続けた。

そして、あるとき立ち止まってみたら、僕は「ことば」を好きになっていた。さらに言えば、いい文章や意義のある物語が理解できるようになっていた。これはとても大きな発見であり、偉大な進歩だった。

そんなわけで(いろいろ端折るが)、理工学部にいたはずの自分が、博報堂という会社に入り「コピーライター」という「学生の頃は知りもしなかった仕事」につくことになる。

もう10年になるけれど、この仕事をすればするほど天職だと思える。今は博報堂を辞め、100人ほどいる会社の経営に参画し、素敵な社員に恵まれ、楽しく仕事に打ち込んでいる。言うなれば、逃げて走っている間に、僕は天職に巡り会えたのだ。

走って逃げ続けていたら、みんなを振り切って先頭まできてしまった。しかも体力までついている。そんなことがあるから人生というのは解らない。生きているかぎり、ひとはどこかに向かって進んでいる。たとえ何をしているわけでなくとも。たとえ何かから逃げている人だろうと。

夜中のテンションで書きたくなって、勢いで書いてみたのだけど特にオチは見当たらない。ただ、大学時代に「何者にもなれなかった」ひとりの人間が、いまようやく「何者かになれるかもしれない」というところまでこれたというということを書きたかった。それは悶々とした大学時代には一欠片も想像もしていなかった姿だ。

何者にもなれず苦しんでいるひとは、そのまま苦しんでいればいいのではないかと思う。それは健全な行為かもしれない。必要とされないことに苦しんでいるということは、必要とされたいという気持ちをもっている証明でもあるからだ。

逃げている人だって走っている。
不毛な時間だって、ひとは何かを耕している。

それが長い大学の中で得た、数少ない、大切な教訓です。

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