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エリザ 反芻

2回目観て、初見の時と理解に齟齬が生じてしまう気がして???だったんだけど、いや、齟齬とかじゃなくて、劇作の複雑さと要素の多さに改めて気付かされちゃったという感じかな。

基本、やっぱこれはルキーニの語る「誰も知らない真実 エリザベート」よ。
誰も知らないよ…すべてルキーニの妄想なんだもの。
昨日の私には芳雄トートがすごく輪郭を持って感じられて、トートのシシィへの愛とかも強めに入ってきてちょっと混乱したんだ。
でも、それだってルキーニの想いなんだ。
そして、"今" のルキーニなら、演出家気取りでトートに愛を語らせたりもするでしょう!きっと。
トートはやっぱりルキーニの分身だよ。ルキーニとシンクロしてる。ハプスブルクを死に至らせようとしてる点でそう思った。
(宝塚版だとミルクをトートも一緒に歌って民衆を煽ったりしてるのね)
社会を憎み王侯貴族を憎むルキーニだったけど、でもオーストリア皇后として輝くばかりの美しさを放つシシィに目を奪われてしまう気持ちもあり、そのルキーニの矛盾(庶民ってそういう矛盾を持ってるよね。文句言う割にセレブ好きとか)が、黄泉の帝王なのに生きるシシィを愛するというトートの矛盾に投影されている。

あと、トートはストーカーみたいにシシィに纏わりついているように見えたけど、別にこれは呪われてるとかじゃなくて、死が傍らにいつも在るというのは自然のことで。
あるいは、死を望んでいる(とルキーニがキャラ設定している)シシィが、いつもトートを傍に置いていた。

刺殺した後、ルキーニはシシィへの思慕をつのらせたんだ。それがトートになった。
実は自由を奪われた小鳥(「かもめ」っていう台詞もあったよね…チェーホフ思い出す)だった、彼女の生い立ちや皇室の中で跳ねっ返りだったことは後から知ったのだろう。
こんな鳥籠に入らなくて済めば良かったのに。自我に目覚め自由を手にしたつもりになった時もあったけど、そんなの所詮はまやかしなのに。ろくでもない世の中、本当の自由は死でしかあり得ない。
このルキーニの考えが、彼が語る物語の中のトートになった。
と同時に、ろくでもない世の中という鳥籠から出られないのはルキーニ自身だったのだから、物語の中のシシィもまたルキーニの投影だった。ラストでシシィとルキーニがシンクロしてたのが忘れられない。トートの口づけが欲しいのはルキーニ自身だったんだよ。

ルキーニの目線は私たちと同じ現代からの目線でもあって、だとしたら語りながらトートやシシィやフランツの心情とかを想像して膨らませたくなっちゃうこともあるだろうよ、と思った。演出家気取りね。
そして、首吊りに始まって首吊りに終わるこの芝居を何度も何度も繰り返すルキーニに、「演劇人」をやっぱり思ってしまうよね。こちらが見たいものじゃなく、誰も知らない真実を見せてくれるのね。

成河さんもよく言っている、この『エリザベート』という作品の多面性。
歴史劇であり法廷劇でありラブロマンスでもある。それらの要素が絶妙なバランスで配合されていて、観る人が其々に受け取り楽しむことができる。エンタメ性も素晴らしい。
「小池先生は芸術としての本質を突き詰める点と、ショービジネスの上に立つ点と、水と油の二面性を抱えていて、その中で常に葛藤している方なんだなと、ものすごく愛せました。」ですと。そうなんだね、イケコ先生。
もともとウィーン版はシニカルな歴史劇だったところ、日本版でラブロマンス・ファンタジー要素が付け加えられ、独自の進化を遂げている。宝塚版はがっつりトートが主役でラブロマンス要素がより強いみたいだし、東宝版もその視点で観に来る人が多いのかもしれない。
東宝2016年版から歴史劇の要素を取り戻すことが意識された。
その部分はルキーニに掛かってるから、帝劇1,800人へそれを届けるために使うエネルギーはハンパないらしい。
芳雄トートや万里生フランツの歌・歌唱表現で届くものはすごく大きいから、それに被せていかねばならないのは本当に大変なことだと思う。
公演毎にそれらの要素バランスは微妙に変わるのかもしれないよね。だってホントに微妙な "出し方" "伝わり方" みたいな所だから、役者・観客・色々ちょっとした要因で揺らぐよな!(あ、成河さん2016年に「その揺らぎを楽しんでます」って言ってたね)
例えばもしかしたら昨日は成河さんが芳雄トートにいつもより多めに惚れちゃったのかもしれない。とかさ。
あと、昨日はB席だったから、もしかして遠い席だと歌のパワーの方がよく届くのかも?なんてちょっと思ったりもした。
面白いね!

私はやっぱり成河さんから入っていったエリザだから、初見でもうこれは歴史劇・法廷劇でしかあり得ないと思ったんだよね。ルキーニ目線でシシィ暗殺を正当化し、歴史のすべてを茶化してニヤニヤと眺める。
でも昨日はラブロマンス部分が芳雄トートや万里生フランツから濃いめに投げ掛けられて感じてしまって、ちょっと戸惑った。
でも考えたらそれだって実はルキーニが内包しているものだし、そうかルキーニによる演出と理解することもできるか!とも思い至ってフフフってなってる。
それに、受け取り方の揺らぎはこの作品の要素バランスの揺らぎの一環なのだと思ったらものすごく興味深い。

もう一つ。
カトリックでは自殺は救われることのない大罪だとされていたけど、1983年以降だんだんその考えが見直されてきているそうな。自殺する人はそれだけ追い詰められていたということとか、遺族の精神的苦痛を和らげる必要もあるという視点から。
だからルキーニも地獄ではなく煉獄で尋問を受けていて、いつかは赦されるチャンスがあるのかな。煉獄に在るルキーニの霊魂のために祈ってあげたい。

…って呟いたら友達が「それでジャベールが救われてほしい」って!
うわぁ…ジャベールを持ち出してこられて震えた。un grande amore と「星の運行」に何か通じるものを感じてたからね!

Un grande amore…
ルキーニが焦がれた、絶対視・神聖視した、渇望したもの。
神が人々に遍く注いでくれる愛のような、変わることのない、消えることのない、絶対的に必ずそこに在るもの。
宇宙とか歴史とかそういう大きなものを司っているもの、みたいなイメージを感じるんだよなぁ。
星の運行みたいな。
自分がその一部になれたら幸せ、みたいな。
宇宙のライフストリーム。
なんで?なんで?っていう疑問が生じない状態。
un grande amore に包まれた完璧な世界。
生きることはツライけど、私が生き、そして死んでゆくことは神の御心…宇宙の法則…un grande amore によって司られた世界の中での一現象で。
委ねる気持ち。それによって安息を得る。
苦しみ藻掻き足掻くことと対極の考え方だよね。
こうあるべき姿…世界が愛に包まれるということを切に求める。愛に触れたことのないルキーニだからこそ。ジャベールもそうだったんだと思う。

そして「ルキーニが語ってることが真実だとうっかり思わされてしまう。ルキーニこそがキッチュだろ」みたいな呟きを見掛けて、あゝ私も分かってた筈なのに惑わされそうになってたかも!って思った。
「誰も知らない真実」って、ルキーニにとっての真実だもんな。
本当のエリザベートの真実なんて、それこそ誰にも分からない。
真実というのは何処にあるのか、そんなことを問い掛けられてもいるんだよな。
キッチュ…虚構を観せて、観客はその中に本当は見たくなかったようなものを突きつけて見せられて、そこに新たな真実が生まれる。演劇だな。


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