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エリザ Jun.17 [人生初エリザ]

本日をもって、ついに『エリザベート』観た後の私になりました。

ルキーニは歴史を俯瞰する人。
全て何もかも滑稽に見えるよね。
ニヤニヤしちゃって。
ルキーニがニヤニヤすると、私もその目線になるから一緒にニヤニヤしちゃう。
歴史を俯瞰・傍観すると、なんか人間って愚かだよな〜憐れだな〜みたいに思っちゃうじゃない?

いんちきなもの。俗悪なもの。キッチュ。
煽られること、踊らされること。
自分の枠組みの外から見たり考えたりすることのできる人は驚くほど少ない。
「私の目で見てくれたら」ってシシィとフランツが歌ってたんだっけ?
王侯貴族も民衆も、自分の立場を守るとか自分の要求を通すとか…歴史はそういう闘争の繰り返し。
老害の滑稽さ。いつの世も。

お伽話なんかじゃない。すごくすごく切実に今と地続きの話だよ。
でも今現在自分が関わってる世界だと、ニヤニヤ笑って高みの見物という訳にはいかないじゃん。
「悪夢」の後、裁判のシーンに戻ったとき急にオドオドしちゃうルキーニみたいにさ。

てか、これ完全にルキーニが今現在私たちの目の前で語ってくれてるんじゃん!
ルキーニは自らの死以来100年間これをずっと繰り返し語り続けている。煉獄とかに居るのかなぁ。冒頭ちょっとウンザリしてるみたいだったとこもスリルミと同じ。

死が魅惑的すぎる。
ラストのシシィの嬉しそうなこと。トートと二人幸せそうなこと。
完全無欠の幸せだな。
それまでにお互いものすごくせめぎ合ってきてるからさ。
シシィが最強の時の、絶対にトートになんかつけ入る余地は無いわ!っていう自信と強さに満ち溢れた顔は凄かった。挑発的にさえ見える笑顔。神々しいほどの輝き。トートが切ない顔を見せるくらいさ。
逆にルドルフの葬儀でシシィが死を求めた時に拒絶してやったトートよ!

死がいつも隣に居る感じとか『道』のモリールを思い出す。美しいし。
トートダンサーたちが何気にそこら辺に居るのとか、いつの間にか忍び寄ってくるのとか、良い表現だなぁ。

精神病院のシーン好き。自分を舞台上に見て打ちひしがれる演劇を思う。
こないだ成河さんがインタビューで言ってた「すごく単純にいうと演劇って、人の姿に自分を映して、それを遠くから眺める遊びです。」そうそう、これこれ。
いや、もしも芝居の中に自分自身そのまんまが登場してたらめっちゃイヤじゃない?観てらんないよねぇ…

「夜のボート」って2隻の舟だったのか。哀しいな。

ハイネの曲のあのコードの不安定さ不穏さは何だ!?酔いそう!

トートは、ルキーニがシシィの物語を語る中で生み出した存在だと思う。
トートとルキーニは一心同体。
ルキーニの願望。
ルキーニ自身が痛切に求めていたもの。
だからルキーニはトート閣下に😍じゃん。

トリプルコールに応えて2人で出てきたお花様と芳雄さん。当然スタンディングですわ。
シシィとトートの完全無欠な幸せの横でルキーニが首を括って死ぬというエッヂの効いたラストシーンの衝撃は大きくて、終演後すぐに拍手喝采という気分にはなれなかったのだけど、華やかなカテコ(特に圧巻✨のシシィ)のおかげで元気が出たからね。
芳雄さん耳に手を当てて観客にヒューヒューを要求!

ルキーニあんなに出番多い、ってか出ずっぱりだとは知らなかった。成河さん舌舐めずりやベロベローとかニヤニヤーとか面白ぇ!って見開いちゃうお目々とかエッチな腰つき手つきとか芳雄閣下にまとわりついちゃうのとかピョン!と身軽なジャンプとか人を見下したフフンていう顔とか変装していろんな役になり切って楽しんじゃう感じとか女官やみんなと調子こいて一緒に踊ったりとか、かと思ったら静かに遣る瀬無さや哀しみを湛えた背中とか…表情や仕草や動きで存分に惹きつけ楽しませてくれる大奮闘。必要なことを観客に届けるためにキッチュの途中でシー🤫ってやって歌詞を聴かせるとかそういう技術も駆使しながら、この物語の骨格を私たちにしっかりと掴ませてくれる。お歌だってもちろん文句無し。いや、スゴイっすよマジで。
狂気とかは全然感じないんだよなぁ。すごく私の隣に居るちょっと調子乗りな人の感じするよ。(あ、ヤバイ癖かもよ。成河私に感情移入しちゃったみたいな💦)

ちょっと解らなかったから調べたところ、ルドルフは幼少の頃はゾフィーのスパルタ教育(トートに、無邪気な口調で猫殺しを語るとこは身震いしたね。その時のトート優しく寄り添ってた。やっぱ少年と死は友達だな…)だけど、シシィに権限が移ってからは自由主義的な教育を受けて、思想がすっかり父と反することになっちゃったらしい。ドイツ頼みな父帝に反抗し、フランスやロシア寄りな言動をして怒られちゃったんだ。シシィは放ったらかさずにちゃんと構ってあげれば良かったのにね。お互い良き理解者になれたかもしれないのに。
ルドルフが鳥類学の論文やエッセイを多く書いていたという点にも目を引かれてしまう。大空を自由に飛ぶ鳥…。

ユダヤ人云々が出てきたとこでルキーニが成りきっているのはシェーネラーか。汎ゲルマン主義・ドイツ民族主義の提唱者で、後にヒトラーが傾倒することになる反ユダヤ主義者。「ハイル!」の挨拶も使ってたんだって。当時のウィーンは反ユダヤ主義の強い都市だったらしい。ハイネの像を建てようとしたシシィは非難される。そしてやがてヒトラーへと繋がっていく。大きなハーケンクロイツまで出てきたあのシーンはそういうことを言ってたのか。因みに、ルドルフが死んだ1889年、オーストリア内にてヒトラー生誕。
歴史は地続きに繋がっている。今ルキーニが私たちの前でこれを語っている現代までも。そのことをこのシーンが象徴しているんだ。

実際のルイジ・ルケーニの人となりも興味深いね。無政府主義者。母に捨て置かれた生い立ちがルドルフと重なったり。
エリザベートを刺殺して終身刑になり、服役中に首を括って自殺。

面白えな、エリザ。
劇作に感心することになるとは思ってなかったわ。

あぁ、ルキーニに「怒り」を感じたってツイートしてる人がいたけど…
面白いね!ルキーニはその生い立ちや行動から見ても世の中とか王侯貴族とかに対する怒りを勿論持っていたと思うけど、語り口の中ではそれを出さず徹底的に茶化しているように私は思った。
所々で怒りの表情を垣間見せているのかなぁ。
ストーリーテラールキーニの合間に、時々登場人物(同時代人)ルキーニも顔を出すの?
あるいは日によって成河さん色々出し入れしてるのかもしれない。
あゝまた次回もやっぱりルキーニから目が離せないなー!

あと、シシィという人を調べてみるとなかなか興味を惹かれるね。自由主義的・ヒューマニスト的な行動(まぁこれもルキーニに言わせればキッチュなのかもしれないけど)とか、すごい闘って勝ち取りに行く気性とか。その言動の中に、虚無的だとか死を超越してるとか、人々にトートの存在を想起させるような要素が実際にあったんだなぁ。

ルキーニのシシィに対する思い入れは、いつからだったんだろうか?
殺した後からだと思うんだよな。
それ以前は特に追っ掛けてた訳ではなくて、暗殺の対象は本当に誰でも良くて、組織から指示されるまま、たまたまシシィを刺した。
それを成し遂げた後…そりゃあ彼にとってシシィは特別な存在になるよね!
獄中で、彼女のことを四六時中考えただろう。彼女の人生と自分の人生が何故あそこであのように交差したのかを想っただろう。
そうしてルキーニの中でシシィの物語が形成されていった。彼女がそこへ辿り着く物語が必要だった。その中にトート閣下が現れた。
その物語を、私たちは観ている。

ルキーニは自分自身をトートだと思いたかったのよ。ずっとシシィに寄り添ってきて、彼女の全てを見てきて、終に彼女に死の幸福を与えた、彼女とun grande amoreで結ばれているトートだと。劇中のトートは正にルキーニの分身。
ノリノリに語ってるんだけど、とうとうその中に暗殺事件や裁判当時の自分…「誰でも良かった」と言う、自分がなりたい自分ではない、トートではない、ストーリーテラールキーニならニヤニヤと見下しちゃうような、ただ時代とか社会とかに呑み込まれた憐れで愚かで小さな一存在であった、 現実の自分が登場する。登場人物ルキーニは、オドオドと狼狽えた様子。
この世の苦しみから逃れる死を思い焦がれていたのはルキーニ自身だった。その意味では、彼が作った物語の中のシシィもまた彼の分身だった。

俯瞰・傍観することと渦の中に身を置くことの、あまりに大きな違い。
そこにめちゃくちゃ震えるし、打ちのめされるわ。


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