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『死神裁判』

トートって何者だ?

『死神裁判』という本を読んだ。
中世末期1400年にボヘミアの知識人ヨハネス・デ・テプラによって書かれた散文作品。当時のプラハ官房語であった、初期新高ドイツ語(バイエルン方言)で書かれたらしい。
ラテン語に通じた知識人だけでなく、一般市民層にも読まれることを意図していたと。「聖職者の司牧にとっての良き参考書、あるいは一般市民の教養的娯楽書、慰めの書として書かれたのでは」と訳者は言っている。
修辞学の教科書として書かれたという説もあるらしい。

ウィーン版のトートと、私たち日本人が受け取る"黄泉の帝王トート閣下"には差異があるんじゃないかと思って、キリスト教世界の人たちの死生観、死神観を知りたかったの。
気付いたらほねじゅう脳も発動しちゃってたけどね😆

死神は地上界を治めているんだな!
(天国と地獄←神)
「神は…我輩にはこの地上の諸国を、相続財産として与え給うた。」

死神は死刑執行人。
人間の身分も学識も美醜も心の善悪も一切無関係に死の大鎌を振るう…Totentanz

「地上の愛は必ず苦悩に変わらねばならぬ。愛の終わりは苦であり、喜びの終わりは悲しみであり、楽しみの後には楽しからざることが来ねばならず、快の終わりは不快なのだ-このような終末に向かってありとあらゆる生き物は走ってゆく。」

「死にたいと望んで死んだ者は、良き死に方をしておらんのだ。我輩に死なせてくれと嘆願する者は、生き過ぎた死に損いなのである。」
ん?基本、死なせてくれと言われること嫌いなのかな?

「短期間輝くにすぎない悲惨なるこの世を去って、良き奉仕の報いとして大きな恵みを得て神の財産を受け継ぎ、永遠の喜びの中へ、とこしえに続く生命の中へ、終わりのない安息の中へ入ることができるように取り計らったのであるぞ。」
この厭世的(中世的?)な感じは既視感あるもんね。トート、シシィ、ルドルフ…てか劇作家ルキーニか。世紀末の空気っていうのもあったのかな。

「我輩は神の工作道具たる"死神さま"にして、きちんと正しく働く草刈人である。」

「我輩はこの地上のパラダイスから来たのである。神がそこで我輩を創り出され、そして我輩の名を次のように正しく定めてくだされたのだ。"どの日であれ、汝もしその実を食らわば、すなわち死によりて滅びるならん" 。かくして我輩の名乗りは、"地上、天空、海の下における主君にして権力者たる死神"ということになるのである。」
そうか…人間はこの原罪のために"死すべきもの"になったのね。

どうせうたかたなのだから、愛さなければいいのに!忘れればいいのに!という死神に対し、
終わりの悲しみが来ることは分かってるけど、やっぱり喜びや楽しみがなければやってられない。
苦しいことはわかってるけど、愛したものを忘れてしまう方が怖い。
農夫、人間らしい訴えじゃん。
人文主義的って言うのかな。
無かったことにはならない。したくない。

業を煮やした死神「さて、お前にとって愉快であれ、はたまた不愉快であれ、我輩は真実をお前の心に開示してやろう。」と言って人間(特に女性)の汚さをあげつらう。
わぁ!キッチュ!!!😳
訳者はこれを、中世末期に流行したメメントモリ思想表出の一原型であるとしているけどね。

「神様の最愛の被造物である価値ある人間を、あなたは何たるひどいやりかたで破壊し、虐待し、冒瀆しておられるのか!」と怒る農夫。神をも侮辱していると。
神は自分に似せた良きものとして人間を創り万物の長たらしめたという思想は固いんだね、キリスト教では。
「人間は思考をもって神様の領域に達し、いやそれを超えてよじ登ることすらできます。」というのは"古典古代的哲学上でのもの"で、"キリスト教的神概念"ではないらしい…
イデア論とかなのかなぁ。
テイヤール先生…

判決。神様つえぇ。すべては神様から授かったもので、被造物である人間も死神も、何ひとつ自分の意のままになどできない。
「さはあれ、この論争、まったく無意味なるものにはあらず。汝ら双方よくたたかった。悲しみが原告に訴えることを強いたのであり、原告の攻撃が被告に真理を語ることを強いたのである。」…神様やさしい。
「故に、原告は名誉を得よ!死神は勝利を得よ!人間はすべて、死神に生命を、大地に肉体を、そして魂を余に渡す義務を負うているのであるから。」

トートは地上界に君臨しているってことで。
生きている人間だからこそトートの支配下にあるんだ。納得。


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