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トートについて考える

トートのシシィへの想いについて、ん?ちょっと待てよ?と思ってきた。

My orders are to destroy
I do so coldly
I take those who belong to me, young or old.
I don’t know how it could have happened
When it doesn’t exist within
But it’s true: I loved her.
人はみんな閣下の手の内にある。私はただ人々に(みんな嫌がるけど)冷たく死をもたらす。でもどうした訳かそれが出来ない、あり得ないことが起きた…という感じかな。

人に死を与えた時、閣下はその人を黄泉の国に招き入れ永遠に我が物にする…というイメージで考えてたんだけど、もしかして違うのかな!?と思ってきた。

もともと人はみんな閣下の手の内にあるんだよね…死を与えた時その人は消えてなくなってしまうの?
そうか…もしかして閣下が持っているのは生殺与奪権だけで、死んだ人を我が物にできるということではないのか?
シシィに死を与えた瞬間、やっぱりトートはシシィを喪ってしまうのか?
自分の案件として彼女を手の内に置いておける期間をめいっぱい楽しんでいたってこと?
この腕に抱いて踊りキスしたくて堪らないけれど、最高の形でその時を迎えられるまで我慢…みたいな?

これって「死生観」の問題だよね。
ギリシャ神話には冥界の王ハデスがいるし、ペルセポネに惚れて連れて行っちゃったりとか、オルフェウスが亡き妻を連れ戻しに行ったりとかするじゃない?
どうもそのイメージでいたわ。だって「黄泉の帝王」とか言ってるからさ。

でもキリスト教では"死神"はいないよね。神の思召しに従って人を迎えに来るのは天使の役目で。
大鎌を持った骸骨とかタロットのやつとかは "死神"ではなくて「死」の具現化なのよね。
トートもウィーンや西欧諸国ではたぶんそのように受け取られているだろう。
シシィの中にある死への願望・憧憬が度々顔を出して、それに負けそうになったり突っぱねたり縋るけど叶わなかったり。
あるいは、人の傍にはいつも「死」が在ると。

そういうふうに観てれば納得いきやすいのよ。でも「トート閣下」だし、TD引き連れてたりして「黄泉の帝王」感あるし、シシィへの感情が見て取れるし…。

そこは、劇作家ルキーニが乗せちゃったんだな〜と考える。
ルキーニ自身が「本当の自由=死」だと思ってるし「所詮この世なんて…」と思ってるから死への憧憬がものすごくあって、その気持ちは"崇拝"みたいなとこまで達しちゃって「トート閣下」になった。
また一方、シシィに死を与えてやった自分の優越性を誇示したい気持ちもあるからやっぱり「トート閣下」になったんだよね。
そしてシシィへの愛憎もそこに乗っけちゃった。トート閣下の感情として。

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