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玉井ママ 夜のドライブ珍道中

【玉井ママシリーズ】

「ママ、なんで怒られてるの」

トマトケチャップで口の周りがべちょべちょになった弟が、アメリカンドッグを食べるのをやめて、不安そうにそう言った。

「ったく、ふざけんじゃないわよ。人違いも甚だしい」興奮した様子で、もう二度と来てやるもんかと鼻息も荒い。弟の口の周りのケチャップを拭いてやりながらそう吠える玉井ママ。かなり機嫌は悪い。

「みんなぁ、口直しにスケート行くよ、スケート」

えーっ。

平日の夜八時過ぎに「さっ、ドライブ、ドライブーっ」と浮かれた感じで三人の小学生の子供たちを車に押し込み、 これから夜の遊園地へドライブするわよ、と言い出す母親。それも普通の家庭なら歯を磨いて寝なさいと言われる時間だ。

昭和30年代の自動車メーカー創世期に関わっていた親父と結婚 したこともあってとても自動車に興味があった。というか、大の車好きであった。運転さえしてれば機嫌が良い。JAFの会員番号だって一桁だ。 そんな玉井ママなので、出張が多く留守がちの父親がいないことをいいことに、何か理由をつけてはドライブに出たがった。

ある日の夜のことだった。「ウワサでは首都高速道路は一周できるらしい」と呟く玉井ママからは、もうそれが確かめたくてウズウズしてる感じが伝わってくる。やばい、これはくる。

「おにーちゃん、ガレージ行ってエンジン掛けといて」

ほーらね。曜日、時間を問わず、思い立ったら即出発。これがポリシー。「まかしといて」小学六年生のぼくに車を暖めておくように指示する。小学校高学年になって「足がちゃんとアクセルにとどく男」としておふくろに認められていたぼくは、出がけにエンジン始動係を仰せつかうことがあった。そしてそれが車好きの子供にはたまらなく嬉しかった。車に火を入れる小学生も問題だが、それを面白がって容認する母親もどうかしてる。

わくわくしてガレージに向かう階段を降りる。 コンクリの据えたカビの臭いと保冷倉庫のようにうすら寒いガレージの匂い。これが車好きの小学生の気分を高揚させた。イグニッションを回しアクセルを目一杯踏む。ブォーン、とエグゾーストパイプが奏でる排気音。もう頭の中はレース場を疾走する自分の姿。 エンジンをカラ吹かしし続けて妄想状態の深みにはまって行く。 今すぐにでもギアを入れて走り出したい衝動を抑える。

バシッ。「痛ってぇー」 調子に乗るんじゃないわよ、早く助手席に移りなさい。ガレージに降りて来た玉井ママに頭を引っ叩かれた。 もう少しでゴールするところだったのに ピットインの指示を出しやがった。

『アメリカンドッグが好きなだけ食べられる』の言葉に踊らされた妹と弟も、母親の傍若無人な策略にはハメられて一緒に車に乗り込んだ。 言っておくが、一般家庭では一日の終わりを迎える時間だ。

その当時の玉井家の車は、親父が酔っぱらって練馬の谷原交差点で横転させて、廃車となった「プリンス2000GTB」という車から、黒のレザートップとマットなカーキ色という煮え切らないツートンの「コロナ2000GT」に変わっていた。ツインキャブのマニュアル車だ。 玉井ママはよだれを垂らして喜んでいたが、いわば女性などは運転を控える、男らしい車だった。

コロナは首都高速環状線を疾走し、一周した後に5号線方面へ戻ってきた。 護国寺の出口手前でみごとな足さばき。 卓越したテクニックのダブルクラッチで 2速まで減速。一般道へ合流して U ターン。 閉園時間も近い「ゆうえんち」へと向かった。 

「あれ乗りたーい」

叫んだのはぼくら子供ではない、玉井ママだ。 ゆっくりと回り続ける円形の金網に内側を向いて立ち並ぶひとたち。その金網にに張り付いたままグルグル回りながら上昇して行くアトラクションだ。 ぼくは年齢と身長制限で引っかかる弟のお守りで見学。ハナっから乗りたくなかったので、ラッキーだと思った。玉井ママは嫌がる妹の手を引っ張って、引きずるようにアトラクションの入り口へ向かう。 妹はまさに生け贄だ。

「はい、上昇しまーす」

アメリカンドッグを買ってアトラクション脇のベンチへ戻ると、そうアナウンスがスピーカーから流れ、二人がグルグル回りながら上昇して行くところだった。 「きゃぁーっ」男も女も、おにいさんもおねえさんも、玉井ママも妹もお約束の絶叫が夜空に谺する。弟はアメリカンドッグに夢中だ。ぼくはグルグル回る様子を見て、理科の実験で使った遠心分離機みたいだなぁなんて思っていた。

「おにーちゃん、雨降ってきたよ」

弟がアメリカンドッグの衣だけを食べて、残ったウインナーを空にかざして言った。んっ?そうかな。おっ、ぽちっと来たな。「ママたちがこれ降りてきたら帰らないと、どひゃーっと降ってくるかもな」ぽちっ、ぽちっ。けっこう大粒の雨だしな。

「おにーちゃん、この雨あったかいね」と、弟がつぶやいた次の瞬間だ。左斜め上から大量のなま暖かい雨。

雨、あめ? いや、これは雨じゃない。

ひとの吐瀉物だ。

つまりゲロゲロである。

弟のほっぺたに付いたのは、赤いにんじんであった。 ベンチから弟を抱きかかえて飛び退く。 アトラクションを見上げると、マシンに張り付いているひとりの女性がうなだれている。 完全にノックアウトされ、そのままゲロゲロで回り続けているではないか。 そしてその具合の悪くなった女性のちょうど下手に乗っていた玉井ママと妹は、 その方向と遠心力によってゲロゲロの被害に遭い続けていた。この場合の玉井ママと妹の「きゃぁーっ」は意味が完全に違っていた。

月夜に照らされた拷問器具に貼り付けられ、ゲロゲロを浴びせられる恐怖に怯える母と娘。それに全く気がつく様子もなく、無頓着に操作小屋で少年マガジンを読むスタッフの兄ちゃん。 まるでホラー映画のワンシーンのようだ。

ぼくはマシンの操作小屋に走り、 怠惰に時間をつぶす若い従業員に事情を説明した。慌てて少年マガジンを放り捨てて操作板に向かい何やら操作する従業員。 マシンは回転するのやめて、面倒くさそうに地面に降りてきた。 直ぐさまタンカに担ぎ乗せられたゲロゲロの彼女にはまったく血の気がない。 あれほど顔色の悪い、いや顔色の無い人をぼくは見た事がなかった。まさにリアルホラーである。

さて、吐瀉物によって汚染されたドライブ親子四人。 もうアトラクションを楽しむどころではない。 ぼくらは対処に応じたスタッフに案内された事務所で、ゲロゲロにやられた着衣を脱ぎ、渡されたオレンジ色の読売ジャイアンツのタオルで身体を拭いた。 責任者と思しき人と玉井ママが閉園の「蛍の光」のメロディーに背中を押されながら戻ってきた。些少のクリーニング代の入った封筒と「一年間フリーパス」三枚を手にしてい た。

汚れた着衣を大きな布袋に放り込んで、ぼくら親子四人は色違いの上っ張りを着させられた。「後◯園ゆうえんち」と刺繍の入ったやつだ。 その出で立ちで帰るハメとなったが仕方ない。駐車場に戻る途中で「トイレに行ってくるから待っている間に食べてなさい」 とまたアメリカンドッグを買い与える玉井ママ。弟はちょっと機嫌が良くなった。ベンチにちょこんと座った三人は「蛍の光」を聴きながらちょっと慌ててアメリカンドッグと格闘していた。すると、何やら遠くで言い争いをしている人たちに気付いた。 二人を相手に声を荒げているのは玉井ママだ。

「違うって言ってるじゃないの」

園名の入ったスタッフの上っ張りを着ていたために、他の従業員にトイレ担当の掃除のおばちゃんと間違われたようだ。でも、ぼくたちは玉井ママにあの作業着がとても似合っているなぁと思っていた。

「スケートまだ間に合うからねー」

予想はしてたが、今度はスケートリンクに移動だ。夜の九時を回っている。明らかに機嫌の悪いおふくろは「池袋のマンモスリンクならまだやっているはず」とつぶ やきながらまたまた車をぶっ飛ばす。なんと10分で到着。

スケート場に着いたぼくたちは、 アメリカンドッグの売店が閉まっていることを確認してほっとした。もう今夜はそれ食べられない。「ほら、時間ないんだから急いで靴を履き替えて滑りなさいね」そう言うと、一人でさっさとリンクに降りて滑り出す、自由すぎる玉井ママ。 ぼくはと言うと、妹と弟の靴を履かせてやりリンクへ向かった。 二人を両側に従えてを手をつなぎ、モーションキャプチャーのようなコマ送りの動きでリンクの中央へ向かう。 まるで道路を渡り池へ向かうカルガモの親子みたいだ。しかも、ゆうえんちのロゴ入り作業着姿の兄妹三人とは、かなりファンキーな絵面だ。

「あっ、危ないっ」 リンクを横断しているぼくらの横を、猛スピードで滑走するおばちゃん。あわや激突するところ。そんな危険な滑り方をするのは、言わずもがなの玉井ママだ。やっとの事でなんとかリンク中央にたどり着いた三兄弟だが、一息ついて「鬼ごっこしようか」と言った矢先。残念な「蛍の光」がリンク内に流れ始めた。 すると、一心不乱に滑り続けていた玉井ママが中央でテケテケしているぼくらの目の前で、シャーッと格好良く氷を飛ばして止まりこう言った。

「さっ、おわり、終わり。帰ろーか」

えーっ、ぼくたちはまだ何も楽しんではいない。 仕方なくそそくさとまたカルガモの親子よろしくリンクの階段に向かってコマ送りで歩き出す。なんだかなぁ。コロナに押し込められたぼくら兄妹は玉井ママの派手な運転を子守唄に眠りについた。起こされると自宅のガレージに戻っていた。夜の十時半だ。夢だったのか?

翌朝、ぼくたちは寝坊した。

元気なおふくろは、みそ汁のお豆腐を手のひらで切り分けながらこう言った。 「あんたたちね、夜遅くまで遊んだんだから、ちゃんと朝は起きる。わかったね。学校に遅れちゃうわよーっ」

そんな理不尽なぁ。

どう考えても楽しんだのはあなただけですから。

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