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美術館は退屈か? 誰かに言いたくなる話 6

美術館に行ったことないという人は、ほとんどいないと思う。もちろん自ら進んで興味のある展覧会に足を運んだ方も多いだろうが、学校の校外授業で、友達に誘われて、団体旅行に組み込まれていたので、チケットをもらったから等、消極的な理由で訪れた方も少なからずいると思われる。また、その中間ぐらいの理由として、話題になっていたのでとか、広告を見て興味がわいて、などの人たちも、かなりな数存在するのではないだろうか。

そして、そのうちのどれだけの人が、満足をしただろうか。自発的に行った人たちの満足率は多分高いだろう。この人たちは、何を見ることになるかを分かって、訪問しており、100%ではないにしても、大多数の人が、楽しんだのではないだろうか。消極的理由の方々は、たぶんその逆だろう。そもそも、見てやろうという気持ちがなければ、何も感じることはない。どんな名作でもその前を素通りしたのでは良さはわからない。問題は中間グループの人たちだ。せっかく、自分の意志で、時間と金銭を費して、美術館へやって来たのに、あまり楽しめなかったということになってしまった、というケースは案外多いのではないか。実は私もかつてはそうだった。30代も半ばになるまで、美術館を楽しんだという記憶はほとんどない。そんな私がなぜ毎年、芸術新潮の正月号で、年間の主要展覧会スケジュールを見て、カレンダーに転記するようになったかを、本日はご披露しようと思います。


美術館を訪問して、面白くなかったという人たちの理由を想像してみた。確かにきれいだったけど、それがどうしたという感じ、別に感動とかそういうのはなかった。何を表現しているのか分からなかった、ちゃんと見てわかるように描いてほしい。写真で見た有名なやつの実物が確かにあった、それは確認した。値段を書いてくれたら、もっといろいろ分かりやすいと思った。すごく混んでてちゃんと見られなくて、すぐに出てきた。期待したほどではなかった、入場料の値打ちはなかった。理由は様々だが、まず前提として、これだけはやってほしいことがあるので、そのことから始めます。

第一に、美術作品の前で立ち止まり、じっくり見ること。これをやらなくては、絶対に始まらない。仮にそれが絵画だったとして、職業画家、それも美術館に展示されるようなものの場合、何らかの評価のある画家が、かなりな時間を費やして、精魂込めて描いたものである可能性が高い。それを鑑賞するのに、一分にも満たない時間しか使わないというのは、あまりにもフェアではない。そして、ちょっと時間をかけて見ると、必ず見えてくるものがある。すると、ちょっと楽しくなる。

「一歩踏み込んで、見ろ」
これは、私が20代の頃読んだ、村松友視著「私、プロレスの味方です」という本の中に、書かれていた言葉で、今も何かにつけ思い出す。もちろん、この言葉の意味するとこは、本当に足を一歩、前に踏み込むということではなく(実際踏み込むこともある)、精神的に一歩対象に近づいて、細部まで観察し、できればその内部まで探ると、これまで見えてなかったものが見えてくるという意味で、これを本の中で、純文学の編集者だった村松さんは、プロレスに対して使っている。この本は一見プロレスの本の体裁をとりながら、一貫していわゆる、ものの見方について語っていて、当時、大いに感銘を受けたものだ。私はこの言葉のおかげで、好きになったもの、ジャンルがいろいろあり、本当にためになった。その後の人生において、楽しみが増えたことを、今も感謝している。とにかく、じっくり見てみよう。すべてはそこから始まる。


ステップ2。では、何が見えてくるのか。私の場合、まずは画家の技術だった。私は絵が下手だ。図工や美術の時間は、いつも早く終わってほしかった。どうしていいかがわからない。目で見えているものと、自分が描いている絵のギャップは、すごくよく分かる。ただ何をどうすれば、その差が埋められるのかがわからない。周囲を見ると、半数以上の人は自分よりも、明らかにできている。少し、真似してみる。するとさらに悪化する。人間の才能と言われるものの中で、絵を描くことほど、露骨にその格差が晒されるものはないような気がする。

あるとき、足立美術館というところで、上村松園の「待月」という絵を見た。夏、縁側の手すりに肘をかけた日本髪の女性を斜め後ろから描写している。月の出を待つ、夕刻の、これだけなら、別にどうということのない、美人画なのだが、問題はこの婦人の着物なのだ。夏のこととて薄着ではあるのだが、紗という生地をご存じだろうか。紗はシャと読み、半透明の布地のことで(近頃の言葉でいう透け感)、この絵の婦人は朱地に白模様の着物の上に青の紗の着物を着ている。画面には、まさにその通りのものが、明確に描かれている。つまり、青の半透明の布地の下に、朱と白の模様が透けて見えている。これ一体、どうやって描いたの?もし自分がこれを描くとしたら、、、ロケットを手作りして月へ行くくらいには難しいと思う。

もう一つ。代表的な印象派の画家、クロード・モネの「睡蓮」。モネは自宅の庭に大きな池を作り、そこに日本から輸入した睡蓮を根付かせた。そして、300点ほどの睡蓮の絵を描いた。日本にも数十点あるが、あるとき私も、地中美術館というところで、そのうちの何点かを見る機会を得た。そこはモネの部屋と名付けられていて、5点の「睡蓮」があった。そのうち一番大きなのは、縦2mx横6mという巨大なサイズ(2x3の絵を並べて展示)のもので、通常の鑑賞距離では到底全体を観られるものではない。まして、印象派というのは、例えば多くの宗教画のように、対象をはっきりとわかりやすく、誰の目にもわかるようには描いてはいない。それよりも時々刻々と移り変わる、光や空気をとらえることに重きを置き、明瞭な輪郭もなく、粗削りなタッチを特徴としている。つまり、絵から1m程度離れた位置では、全体はおろか、半分も視野には入らない。そしてもう一点、睡蓮というのは水草だから、当然、池の水面が描かれていなければならない。水面の表現、、、小学生の私は、池なら青の絵の具に白を混ぜて、ベタ塗りしていた。道は灰か茶、山はビリジアンだ。今の私はそれではダメだと、わかってはいるが、他にこれという方法も思いつかない。だから、絵を描いたりはしないのだが、私のことなど今はどうでもいい。モネはどうしているかということだ。とりあえず、このあたりが水面だろうと見当をつけて、モネの筆致を見るべく、絵から50㎝のところに立ってみる。何とも判別のしがたい、モヤモヤしたものが描かれている。しょうがないので、少しづつ、絵から離れてみる。幸いにも部屋は広く、充分後ろへ下がることができる。1m、同じだ。2m、睡蓮らしき何かが見える。3m、何となく睡蓮の花と葉の様子がわかるようになる。5m、睡蓮の周りにさーっと、水面が広がった!光を反射しつつ、岸に立つ樹木の影を映す、本来透明であるはずの水が、はっきりと見える。これはなかなか味わえない体験だった。そしてさらに。少し後で気づいたのだが、モネは自らの腕の届く距離、つまり絵から50㎝のところで、モヤモヤにしか見えないものを描き、それを5m離れたらちゃんと水面に見えるようにしてあるという、これまた素人には見当もつかない方法を用いているわけなのだ。この時はしばらく言葉が出なかった。

描画技術という側面だけの話でしたが、少しは美術鑑賞の助けになったでしょうか。美術作品には、他にもいろいろな鑑賞点があります。題材、色使い、描法、構図、等様々な観点で多種多様なアプローチの方法が可能です。自分にとって分かりやすいやり方で、一歩踏み込んでみることをお勧めします。


3番目。さて、展覧会に行き、一つ一つの作品の前で立ち止まり、最低でも1分以上細部まで目を配り、念入りに鑑賞したところで、何も感じないこともあります。というか、大半の作品がそうである場合もよくあります。そんな時はどうするか。やることは簡単です。さっさと次の作品に移りましょう。あなたにとって、その作品の価値は、その程度だったということです。もしくは、その時点ではあなたに、その作品を愛でる素養がなかったということです。いずれにしても、そこに立ち尽くすのは、時間の無駄以外の何物でもありません。作品の世間的な評価、巷間伝え聞く価格、作家が有名かどうか、一切関係ありません。自宅の壁に掛けてみたいかどうか、錯覚でも作者と精神の交感ができたと思ったかどうか、なぜか気分がよくなった、こういうことが大事だと思うのです。自分自身が判断を下す人なのです。他人の言説に耳を貸すばかりでは、自分にうそをつき続けることになります。それでは楽しめません。もちろん、自分と好みの合う紹介者は大事な存在ですが、他人は他人です。必ず自分の感覚を最終的な判断材料としましょう。


4。さて、そうこうするうちに次第に自分の好み、趣味嗜好というものがわかってきます。堂々と趣味欄に美術鑑賞と記入しましょう。そして様々な美術館、博物館が企画する展覧会の案内を見ただけで、中身の見当がつくようになり、行くべきかどうかの判定ができるようになります。ここまでくれば、もう大丈夫、もしあなたがお金持ちなら、美術作品を所有してみるのもいいかもしれません。数千万円をどぶに捨てる覚悟があれば、いい作品と出会える可能性も否定しません。


最後に、それでは一体どこから始めたらいいのかという方のために、私の推奨するのは、近代日本画です。まず、基本的にいわゆるきれいな絵が多いです。誰の目にもわかりやすく美の世界を繰り広げています。また、豊富なヴァリエーションもいいと思います。豪華絢爛なもの(金屏風に描かれた3匹のボルゾイ)から侘び寂び(真夜中に魚の骨を咥えて歩く猫)まで、途方もないもの(中国の山岳地帯の上空を行く半透明のゼロ戦)から日常の些末なもの(破れ団扇にとまっている蟋蟀)まで、季節の移ろい(うすぼんやりと咲き乱れる醍醐寺の一本桜)(朝顔のフレームの中の麦わら帽子、貝殻とビーチ、海)(複雑に塗り分けられた枯葉の中にたたずむ黒猫)(そぼ降る雪の中、新年を待つ京の家並)、ありとあらゆるものがあなたをお待ちしています。入門用というには奥が深くいジャンルですが、比較的とっつきやすい分野とは思います。どこで見られるかというと、東日本の方なら、東京広尾の山種美術館、西日本の方は島根県安来の足立美術館、この2つの美術館では、豊富な所蔵品を中心に年中代表的な近代日本画の展覧会が開かれています。

ここから次第に手を広げて、同時代の洋画、また江戸の絵画などには行きやすいと思います。さらには外国の諸作品、現代のアートにまで行ってもいいですし、興味がわかなければ、そんなものは放っておけばいいと思います。ただ、展覧会の入口を入ってすぐのところに、泉と題して小便器を置き、それをアートだと称するのも、それはそれでありだということが、納得できるようになれば、かなり世界が開けた感じになることは事実です。


私は以前から、「実は無趣味な方で」などと自分を紹介する人を疑っている。そんなこと、ありえないだろうと思ってしまう。実は他人には言えないような趣味だから、そんなことを言ってごまかしているとしか思えない。「暇なときは大体寝てますね」などという人は、人生の楽しみを自ら放棄している。もし本当にそんな人がいるなら、美術館通いは悪くないとお伝えしたい。気持ちがリフレッシュでき、場合によっては興奮するほどの感動があり、大した金もかからず、人聞きも良く、新たな知識を得られ、美しい思い出ができる。なかなかいい趣味だと思いますが、さて、いかがでしょうか。

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