【公演を終えて】-ひきょう-#8

「ああ」の価値

COoMOoNO主宰・伊集院もと子さんの描く作品は、どれも「生活」にとどまる。それは所属の畑中研人さんや松本優美さんをはじめとする、俳優の演技に支えられており、観客と同じようにリラックスした俳優の身体(非常に繊細に神経を張っているのではあるが)が、今まさにここで生活・存在しているように見えるので、細かな心の機微まで伝わる。
今回、舞台に立ち・共演者を見て、感じたことは、「生活」は、当人からしてみれば「偶然」の連続であり、その人の人生に起きた様々な事柄を誰かがあとで振り返ったときには、そのように生きるしかなかった、「必然」の糸でつながっている、ということだ。
たとえば、舞台上で会話する場合、日常会話をするときのように、言葉を発するだけでなく相手やその場の多くを観察しており、また、台詞が出てこないなどのトラブルに対処している。決まった戯曲の中でも、舞台上は「偶然」に満たされている。一方、筋書きがあると知りながら客席から観るその様は、「必然」に満たされているように見える。役名で呼ばれこそすれ、そのように生きるしかない俳優たちがそこにいる。
演技は「自己解体」であると、COoMOoNOの機関紙[GESSO]で畑中さんが書いていた。
「苦心しながらも、相手に体がひらく時、相手の体も自分にひらく瞬間がある。ああ触れ合えたという瞬間がある。演技は自己表現ではなく、自己解体であることを実感する。」
「ああ触れ合えた」の「ああ」に含まれる、言葉では掬いきれない豊富なニュアンスは、重ねられた稽古の末に生起した「偶然」と「必然」の妙味だ。作中に描かれる、人や、空の星々が辿るしかない「宿命」の軌跡だ。それが「生活」だ。
そのような意味で「生活」を捉えたとき、『堕落論』で有名な、坂口安吾を思い出す。彼の言う「堕落」とは、「好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめること」(『続堕落論』)だ。そして彼はこのように続ける。
「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落の持つ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。(略)人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる」(同)。
一人の演技者が「ああ」と言わねばならぬとき、それは、「自己解体」によってむき出しになった赤裸々な、孤独を宿命づけられた個の魂が、同じく孤独な他の魂と、対立しながら行われる人間の真実の「生活」を描くことができた瞬間にほかならない。
畑中さんは言う、「人が為すことで、それ以上に美しいものを、僕は知らない」と。

寺原航平

参考資料
「EDITER’S NOTE 畑中研人 [自己解体の手つき]」『GESSO vol.1』2021年刊
「続堕落論」『堕落論』新潮文庫 平成21年刊



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?