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多忙の正体

現代人はとにかく多忙だ。
みんな忙しい。ただ、多忙の尺度は人それぞれであって絶対的な基準はない。
しかし、最近、奇妙な傾向があることを確信した。それは多忙を極める人ほど返信が早いということ。加えて、本当に多忙である人は見かけによらぬものであることだ。

私の周りでは本当に”忙しい”人間が2名ほどいる。(恐ろしいことに企業の規模の違いはあれど、どちらも執行役員。1番多忙な人間はそうゆう層なのかもしれない。N=2だけど。)
どちらも返信は恐ろしく早いし、とんでもなく仕事をしていることは間違いない。ただ、フォローはとても丁寧だし、学生ピヨピヨの私の意見を1人前の意見として扱ってくれている。(1人は社外の人間なので忖度もあるだろうが。)
2人のようにまじで忙しい人は置いておいて、やっぱり忙しいと話す人は多い。

後者の多忙をよくよくみてみると、多忙を充足と捉える人が多くいる。(もちろん、私も含め)
そのような人たちは、友達の数、多くのプロジェクト、目を見張る肩書きに、足を運んだ土地の数で自分自身の人生のクオリティーを測っているように思う。幸か不幸か、巷には多忙を可視化するためのツールが盛りだくさんだ。InstagramにBeReal、しまいにはこの2つを併用する猛者も登場中ときている。(再三言うが、私も含め)

しかし、ここで考えてみたいのは、その多忙は本当に自分にとっての充足なのだろうかということだ。他人につくられた充足ではないのか?そのような疑問が首を擡げる。つまり、多忙であることを他人に認められたい欲求が存在するのではないか、ということだ。

しかも、最近はどうやらデジタルデトックスというものが流行っているらしい。昨今下火のキャンプブームや周期的に到来するオーガニックブームもその類いだろう。多忙な自分へのご褒美。その多忙は本当に自分にとっての充足なのだろうか?

上記の問いを考えるためには、人の充足とはなんであろうかという疑問に答える必要がある。
ただ、その答えは『政治学』に既にあるような気がしている。

森の中の一匹狼は本能だけで生きていけるから、仲間はいらない(実際のオオカミは群生動物だが)。神は全知全能であるから誰の助けもいらず、これも一人だけで十分である。人間はその本性から共同体をつくって他者とともに分業し、協力するものであり、共同体から引き離されては生きていくことはできない。一人では自足できない人間が集まって、はじめて人間らしい生活を成り立たせる自足の条件を完全にそなえた共同体が生まれる。アリストテレスいわく、人間は社会的動物。他者とコミュニケーションをとり、分業し、連帯する社会は、人が生きていくための必須の場であり、そのような社会の成員となることが一人前になることである。社会の連帯と分業をベースにして、一人ひとりが自己の個性と能力を活かし、また、競い合うこともできる。職場での毎朝の挨拶、社会というチームのメンバーとしてのコミュニケーションの始まりである。

政治学・アリストテレス

つまり、充足とはもとはと言えば『共同体への帰属意識』だった。人間は社会的な動物であり、帰属している共同体に認められることが充足につながると言う意見である。

では、なぜ『多忙』が充足に繫がるのか?
それはたくさんの共同体に帰属していることを暗に示すことが出来るからなんじゃないだろうか。年収、友達の多さ、フォロワー数、武勇伝、実は全てが『共同体への帰属意識』に帰着する。『共同体への帰属意識』は共同体への貢献度、そして自分自身の代替性によって変化するため、充足している感を出すには多忙であることを示すことが最も効率が良い方法だ。(私も多忙をかっこいいことだと思っていた。)

でも、それは自分にとって充足ではない。なぜなら多忙と思われることはどこまでいっても他人軸だからだ。他人軸の人生なんて、そんなものは結局クソに違いない。(そうは言ったものの、私は弱い人間なのでいつまで経っても他人軸なのだが)
前述した2名は間違いなく、自分軸だろう。自分は何をしたいのか、何を成し遂げたいのかということをよくわかっている。(だから、多忙アピールはしないわけだ。)

しかし、そこまで自分と対話し、何がやりたいのか?という問いに対して真摯に答えられる人間は多くない。
多忙、それは現代人にとってとても心地よい良い麻薬のようなものかもしれない。

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