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英語教育・英語学習に関する独り言24

大阪公立大学の英語公用語化について

CJは兵庫県民であって大阪府民ではない。しかし、維新の会は2015年の大阪都構想の住民投票の時から嫌いだった。勝手に「尼崎市も西宮市も、何なら神戸市も大阪都に入れたるわい!」みたいなことを言うアホな維新議員が跋扈していたからだ。何様やねん。吉村のことも嫌い。コロナが日本でじわじわと増えていたころ、勝手に「兵庫県の人は大阪に入ってこないで」宣言をして、多くの人の呆れさせたことは記憶に新しい。国土交通大臣でもあるまいに、大阪府知事が兵庫県民の往来の権利に口をはさむとは何事なのか。

他にも吉村については、自分の子どもの小学校の先生を授業参観の場で貶める発言をしたという噂をじかに聞いたりして、正直なところ全く好きになれない。イソジンやら大阪ワクチンは笑い話で済ますことができても、万博なる面妖な巨大クソ事業を推進して日本の沈没に拍車をかけているに至っては言語道断、世が世なら暗殺されているのではとも思う。

そんなアホでもたまにはまっとうなチャレンジもするらしい。大阪公立大学で、将来的に英語を公用語化するらしい。Yahooにいくつかの関連記事があるので一通り目を通したが、コメント欄がやっぱりというか何というか、残念の一言。とにかく、新しいことを始めようとすると、これでもかとネガティブな理屈やコメントが湧いてくる。とにかく、何かをやる前から「そんなことはできるわけがない」という空気が充満していて、閉塞感ばかりが増していく。何なんやろね、この日本しぐさ。『 私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる 』を読んだことがある方なら、齋藤孝や梅田望夫が憤り、そして戦ってきたものが、まさにこの「空気」だと分かるだろう。本書発行から15年以上。やっぱりというか、日本は変わっていなかった。この吉村発言は1割本気、9割めくらましの話題作りだと思っているが、それでも以下に真面目に私見を述べてみたい。

英語公用語化を導入して失敗した企業がある → どこで失敗したのかという知見を得られる

カタコト英語で講義してどうする? → カタコト英語で講義している国など世界に腐るほどある

英語公用語化ぐらい、数年かけて取り組んでみたらええやんと思う。実際にいくつかの私大で非常勤講師をやらしてもらっている身からすれば、だいたい半期15回の授業のうち、4~5回の授業をうまく使えば、

あ~、ティーチャー、キャン アイ ゴー トゥー トイレット?

とか言うようになる。なぜなら学生が日本語で何か言っても、CJは基本的に無視するから。そういうことは初回のオリエンテーション時に詳しく日英日、あるいは英日英で説明している。

トイレに行きたい学生が出たら、

Two and a half minutes. Go. 〇〇 san, get your phone out. You are a timekeeper.

と伝えて実際に時間を測らせたりもする。授業の中でもレクリエーション的な要素を入れれば、よっぽどアホな学校のよっぽどアホな学生以外はしっかり反応してくれる。CJはちょうど一年前に二日間、計8時間だけ大阪公立大学でアカデミック・ライティングの授業を担当したことあるが、なかなか粒ぞろいの学生がそろっていた。R大学とかD大学よりも普通に優秀な子が多いんちゃうかなと思う。キャンパス全体で英語を使うのは難しいかもしれないが、授業の半分を英語にする、もしくは国際基督教大学的に言えばEJの授業にするのは、そんなに難しくないのでは?

一部のコメントに

目指すべきなのは「母国語で、知識を深める」こと。英会話ができることではない。

とあるが、誰も英語で専門知識を深めろとは書いてないでしょ・・・ 吉村が大学の蔵書まで全部英語にするとか書いてる?大学の中には反転授業を行うところも増えてきてる。知識は日本語で蓄えて、授業の中での発表やディスカッションを英語で行う、というのも(専門科目なら)全然ありだと思う。

これに関連する事象として、教室内で学生に英語(別に韓国語でも中国語でもいい)でしゃべらせると、学部や学年の垣根が取れる、あるいは格段に低くなることが挙げられる。コロナ中にはできなかったが、2023年度からは席替えしてのペアワークやグループワークも再開したが、その際に目が合った者同士で Hello, my name is 〇〇 から始めろ、と指示すると、これが結構うまく行く。というか、2019年度以前からこういうやり方はあったけどね。

教室を知識を獲得する場と見るか、あるいは議論するための場と見るか。まあ、その両方として見るべきなのだろうが、要はそのバランスだと思う。知識獲得は母国語、ディスカッションは外国語というのは、わが母校のICUでも時々あったし、たしか4年生の秋学期に半分暇つぶしで履修したIS(International Studies)の何かの科目が、最初の3~4回の授業を9.11に関するディスカッションにしていた記憶もある。たしかインド系の先生だったような。

まあ、何が言いたいかと言うと、新しいムーブメントを「そんなもん無理」と決めつける前に、いったん実行してみませんか?そして trial and error を通じて、より良い形での実現を社会全体で目指してみませんか?ということ。大阪公立大学ぐらいちゃんとした学校なら、国際教養大学やら国際基督教大学、早稲田や慶応の国際教養学部の職員(≠教員)を何人かヘッドハントすれば、大まかな英語公用語化、少なくとも授業の一部の完全英語化の道筋は作れると思われる。日本の低迷の要因は数多くあるが、新しい思想や技術の萌芽を潰しまくる空気は、その中でもトップの要因。そういう空気は、そろそろ打破せんとアカンと思う今日この頃。

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