オモコロ、自由、相対的自由

今回のオモコロチャンネルの動画ではゲームに負けた十年間海老天を食べることを禁止されるという壮大な企画であった。海老天自体そんなに高頻度で食べるものではないが、負けたARufaさんの絶望は想像するに難くない。

永田さんのnoteでもこの動画について触れられていた。永田さんの記事を読んで思い出したオメラスという話がある。今回はその話についてしようと思う。

オメラスという街はいわゆる理想郷で、住人は皆快楽を享受し、幸せに暮らしている。しかし、この街には秘密があった。この町ではたった一人の少年が薄暗い部屋で惨めな生活を強いられているのだ。これは街の住人には周知の事実で、それを受け入れて生きている。この話では、住人の享楽的生活はこの少年の存在によって担保されていると説明されている。

初めて読んだ時私はこれを犠牲の話として読んだ。一人の幸せは誰かの不幸の上に成り立っている。すべての住民の幸福がたった一人の少年の犠牲によって保たれているのなら、むしろ現実世界よりも犠牲が少なくて済んでいるのではないかという考えに至った。

しかし、冒頭で引用した永田さん発言を踏まえると、もっと解像度が上がるのだ。仮に街の住人が誰の犠牲もなく快楽に満ちた生活を送っていたとする。それは、果たして彼らにとって幸せなのだろうか。側から見れば羨ましい限りではあるが、もしかしたら、彼らは自分たちが幸せであることに気づくこともできないのではないだろうか。
人は他人と比べて自分の幸福度を測る生き物だ。自分の中に絶対的な幸せの尺度を持ち合わせておらず、他者との相対的な比較によって自らの幸福度を決定する。つまり、皆が一様に幸せな世界は皆が一様に不幸なのである。オメラスの住人が幸福なのは単に享楽的な生活を送っているからではなく、皆がそのような生活を送っている一方で、哀れな生活を強いられている可哀想な少年の存在を知っているからなのだ。

この話の中で少年はただ社会の犠牲として機能していただけではなく、街の相対的な不幸を一身に引き受けることでその他の住人の幸福度を上げる役割を果たしていたのだ。つまり十年間海老天を禁止されたARuFaさんはその他メンバーの相対的に不幸で、他のメンバーはこの先十年間海老天を食す自由を有するという一点においてARuFaさんより幸せなのだ。
勝った皆さん、おめっとさん。

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