図書館でサボって反出生日記 2023.2.6

 日々の行動に一つ異物を入れるだけで芋づる式に一日が崩壊する。
 おはようございます、生留野下手仁(いきるのへたひと)です。仁をひとって読むの、皇族以外でもやっていいんですね。

 朝9時から始まるデイケアに行くため、平日は毎朝7時に起きている。特に低血圧な訳ではないがどうも朝に弱いので、朝食を済ませた後に20分ほど自分の部屋で椅子に座り、ぼーっとするかスマホを見るかの時間を設けている。これが無いとどこに行くにも辛すぎるのだ。時々家族にギョッとされるが、別に放心しているわけではなく1日の助走。

 昨日はものすごく眠たくてお風呂に入らず寝た。犬の散歩でしか外に出ていなかったので下界の汚れも少ないし、朝入ればいいだろうと翌朝の自分に頼んで布団に入った。翌朝いつも通りの時間に起きてしまった。

 ただいつも自分の朝の弱さを鑑みて20分ほど余裕を持てる時間に起きているので、その20分を使えばシャワーをさっと浴びて行けるなという思いのまま、日課のログボ回収。ログインしたりしなかったりで今日も七日連続ログインの一日目だった。こないだもそうだった気がする。
 本来なら寸暇を惜しんで布団から出るべきなのだが、身体はルーティンから抜け出せない。だがまだ余裕はあった。

 朝食を済ませて新聞を読む。読むな、急いでるのに。
 でもまだ余裕はあった。

 シャワーを浴びて着替え、ベッドの上で体育座りする。敗着手はこれだった。
 いつもより時間に余裕がないのに、一日で最も余裕がある時間を削らずにぼーっと20分が過ぎていく。気づいた時にはもう間に合わない時間だった。

 デイケアの出席は確定診断を出すためにシビアに計算される。ここで少し感覚と違うのは、遅刻は別計上ということだ。
 仮に確定に必要な日数が60日だとする。一方遅刻込みの計数は90日だ。これは直感的に遅刻早退時の出席の価値はフル出席の半分と感じてしまうが、実際は違う。
 例えば59日フル出席を済ませている状況で、残りを早退出席のみで確定診断にありつくには、加えて31日が必要になる。
 要は遅刻出席の価値はゼロに近いのだ。出席にお金を払っているからなおさら……。
 まあそれなら早く行けって話なのは分かっているのだが、それができないから通ってるわけで、なんて言い訳しながら今日は向かう足でそのまま図書館へ行った。

 半日かけて現代思想の『反出生主義を考える』を読んできた。今日は土日に生活リズムを崩したのも影響したのか、イメージが頭の中で像を結ばない日だったため特に重要な部分が全く入ってこなかったが、それでも面白い読み物だった。
 ざっくり述べると今日の反出生主義は
「この世に産まれるのは子にとって害であり、人類は子を残さず絶滅したほうがより良い」という考えだ。過激に見えるが、産まれてこなかった方がよかった、と考えるような出来事を経験したことがある人は決して少なくないのではないか。
 この考えの論証はそういった「苦」に着目する。ある人Xの生まれてきた場合と生まれてこなかった場合を比較すると、四つの事柄が見える。
 Xの産まれてきた時、その人生に幸せ(快)が存在する。これは良いことだ。また当然苦しみ(苦)も存在する。これは悪いことだ。
 続いてXの産まれてこなかった時、まず苦は存在しない、これは良いこと。そして快も存在しない、ここで反出生主義はこれを「悪くはない」とする。産まれてきてないんだから快を受ける主体が存在しない以上、悪いことはないのだと言う。
 ここで苦の不在と快の不在に非対称性が現れる。
 これを提唱者のベネターは現実において人は自分の子どもがひどい苦しみに陥った時にその子をこの世に産んだ自分の選択を後悔することがあり得るが、一方無人島に人生に満足した人たちがいないことを後悔することはないことからこれを示す。
 これによって出生は、産まれないことに比べて害であると言える、らしい。
 ちなみにこれは既に産まれた人の話ではなく未来に産まれる人の話であるため、反出生主義者は自殺すればいいじゃんのような反応は的外れである。
 産まれない方がよかったのに既に産まれてしまったことを嘆く点は、一切皆苦の世界で輪廻してしまうことからの解脱を目指す仏教と似通うところがある。違いは仏教はそれに気づいた少数の人の目標で、反出生主義(少なくとも提唱者)はそれを人類全体に敷衍することである。

 他にも仏教との相関性や、歴史上の反出生主義、反出生主義において産む性として避妊ではなく女性の中絶が強調されるマチズモ性、痛みを感じるロボを作ることの是非など、さまざまな論点があり、今まさに議論されてることについての交錯が垣間見れた気がして面白かった。また全体としては提唱者のベネターの主張はここがちょっと甘くね?という批判的な論考が多くてそこも面白かった。
 ベネターはそういった反論に逐一反論をし返すのだが、お互いに自分の土俵から降りない限りは負けることがない主張であり、どちらの土俵に乗るのがより真理に近いかの勝負がつく気配は今のところないらしい。

 私自身小さな頃から自分が存在したこと自体を消すボタンがあったら即押すだろうな、ということを考えていた。死にたかったというよりは存在自体(つまり自分の実存)が意味を持っているという感覚がなかったように思える。みんなそうなんじゃないのか?という思いは、子どもながらの世間知らずを多少失った今でも消えてはいない。

 自分以外の自分があった可能性と、今それがなぜ自分なのかという話は永井均の本でもあり、最近これを問いにしていいということを知れてなんだか嬉しくなった。
 押すと産まれてこなかったことになるボタンがあったとして、押す人はどれくらいいるのだろうか。我々はそれが無いから生きている。

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