焼肉日記 2023.2.1

 デイケアは発達障害診断の名目で通っているのだが、卒論やらサボりやらが響いてあと一月半ほどフルで出なきゃもらえないみたいだ。謎のヘッドギア装着で脳をピピっと測って判定する様にはできない病気なのは分かるが、あまりに長すぎる。おじいちゃんになってしまう。
 別に診断が出たとて特に何か得があるわけでもないことも徐々に分かってきて、とりあえず五日出勤に耐えうる身体を作るか……と毎日死んだ目で通院している。最近は慣れてきたのかそこまで死んではいないが、半ゾンビくらいで朝向かう。朝向かい勇気。

 今日はデイケアを昼で切り上げて友人らと遊んだ。

 お昼に焼肉を食べた。すごい、豪華だ。サラダバーやらなんやらでテーブルが満ち満ちてしまい、ずっとこの皿は重ねていいものか……と思いながら食べていた。Twitterでは定期的に「お皿重ねてくれてありがとう」と「こっちでルールがあるから触らないで」の対立する二つが流れてきて、テーブルでがんじがらめになってしまう。

 焼肉は食べ放題の場所だと長年勘違いし続けていたが、実際はご飯のおかわりさえできれば半額以下のランチでお腹いっぱいになって帰れる。このことは個人的にここ数年でのノーベル賞級の発見の一つと感じている。
 本でもなんでも自分の感覚をひっくり返してくれるものが好きなので、小さな発見でも隙を見つけては感動している。
 最近は感動を求めて本を選ぶ時にそういう体験をもたらしてくれそうなタイトルを選びがちだが、既にそれについて興味を持ってしまっているのでそう簡単に転倒を伴う感動を与えてはくれない。
 感動は予想もしないところからやってくるから気持ちいいのかもしれない。

 水風呂に入っていると凍った池に落ちて死ぬ人は、なんて行き場のない苦しみを味わうのだろうと悲しくなる。私の生活には苦しみの想像が多い。自己と外界が未分化なまま大人になってしまったのを時々感じる。

 この未分化はSNS越しなど、接することなく相手のことを類推する時に、つい自分だったらこう思うを暴走させてしまいがちで相手の中に自分の反射像を見い出してしまうことが多い。
 当然そんなものはまやかしで実際は相手の中には相手しかいないのだがやってしまう。
 こんなの百害あって一理なしなんだが、自分以外の人間がそれぞれの感情を持っていることに思い当たってない時がいまだに多々ある。
 自分の中にそれを見つけた時は毎回慄いてしまうのだが、大抵はその場面では行動を修正するので相手には無作法な奴だなと思われるくらいで終わっている(多分)。
 私は誰かとコミュニケーションを取る時に慌てて相手の中に人格を付与することがあって、それはなんだかすごく独在的で面白いなと思う。確かに相手の中に相手はいるのに私の中の私が認識できていない瞬間がある。その瞬間にも世界は回っている。

 さっき外に出たらすごい量の雪が降っていて、さっき外を見ると歩道を除雪車が走っていた。
 札幌がDIO vs 除雪ジョースターの戦場になるのかもしれない。

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