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コンビビアルな状態とは~コンビビアルなマネジメント②

 コンビビアルという聞きなれないであろう言葉がどのような意味であるかを記す前に、コンビビアルな状態がどのようなイメージであるかをまずお話しようと思います。

 グスターボ・ドゥダメルをご存知でしょうか?
 ベネズエラ出身のクラシック音楽の指揮者です。WEBでも彼の指揮をみることができるので、是非ご覧ください。指揮者としての実力は当然一級品ですが、わたしが最も感銘を受けたのは、コンサートホール(場所)の空気感を一変させる彼のマネジメント力です。演奏者は勿論、観客までもが一体となって、ドゥダメルがイメージする空気感を愉しみながら自律的に構成していくのです。指揮者も演奏者も観客もそのラベリングによる隔たりなどはなく、ただそれぞれの役割があるだけの「非分離」な状態でその「場所」が構成されていくのです。それぞれがそれぞれなりに、純粋に愉しんでいるのにも関わらず、音楽そのものもコンサートホールを満たす空気感も美しく調和されていくのです。

 このような状態がまさにコンビビアルな状態です。

 他者や環境から強制される(他律的)ものがなく、それぞれの個性にあう自律的な活動をしているのに(しているがゆえに)、全体が心地よい空気感に満たされている状態です。

 前述した一見カオスにみえる素和美小学校も、コンビビアルな状態といえます。

 コンビビアルな状態というものを少しイメージできましたでしょうか。

 このコンビビアルという言葉にわたしがはじめて出会ったのは、イバン・イリイチ(Ivan Illich)が著した「Tools for Conviviality」(『コンビビアリティのための道具』ちくま学芸文庫)という本です。ある年末に立ち寄った書店でふと手にした本です。難しく分からない部分も多かったのですが、強烈に惹かれるものがあり、夢中で読みました。その年末年始は、この本を読んでいただけであっという間に過ぎ去ったことを覚えています。
 その年明けすぐに、素和美小学校の理事長からお声がけ頂き、素和美小学校をより発展させるための会合に出席をしました。そこに現れたのが、着物姿の山本哲士です。
 山本は、近代学問体系を超える超領域的専門研究を提唱し、ホスピタリティ環境学、政治社会学、資本経済学、精神分析理論、言語理論、人類学などをもって現在社会を考察しつつ様々な企業との協働ワークを多々推進してきた人です。勿論、そのときは彼にこのようなバックグラウンドがあるとはまったく知りませんでした。
 その会合で山本が話をした内容もとても興味深かったのですが、わたしは何より彼の放つアウラに圧倒されました。やわらかい物腰でありながら、ブレない芯が滲みでてくる感じ、というのでしょうか。
 彼が纏う何でも受容してくれそうな、心地よい空気感に浸りながら、小学校を案内している際、年末年始の話になりました。わたしのその年末年始はイバン・イリイチでしかなかったので、その話をしたところ、彼は「メキシコのCIDOC(Centro Intercultural de Documentacion:相互文化資料センター)でイリイチと過ごしたことがある。わたしの思想の根幹のひとつだ」と言ったのです。人生には必然の出会いがあるのだと感じたことを今でも鮮明に覚えています。
 この出会いを機に、わたしは彼からイバン・イリイチのことやそれを発展させた山本の思想を学ぶことになったのです。あの年末、ふと手にした本がわたしの人生にこれだけ大きなインパクトを与えることになったのかと思うととても感慨深いです。
 イバン・イリイチについては、山本が『イバン・イリイチ 文明を超える「希望」の思想』(文化科学高等研究院出版局)をはじめ多くの文献に残しているので、興味ある方は是非ご一読ください。ここでは、簡単に記すことにします。
 イリイチは敬虔なカトリック信者のエリートで、いずれは法王かと目された存在でした。ニューヨークのプエルトリコ区での活動からプエルトリコ大学の副学長を経て、メキシコのクエルバナカを拠点にカトリック伝道師たちへの教育をはじめます。
 イリイチがクエルバナカを拠点に教育をはじめた背景には、当時の社会状況が密接に絡んでいます。一九五九年にキューバ革命がおき、フィデル・カストロが社会主義宣言をしたのが一九六一年です。このキューバ革命がラテンアメリカ各国に波及することを恐れたアメリカ合衆国は「進歩のための同盟」を結成し、「ラテンアメリカを助け、救え」というスローガンを掲げます。ラテンアメリカはカトリック信者が多い地域なので、カトリック教会がこの運動に協力することになりました。イリイチはプエルトリコ区での活動やプエルトリコ大学での経験から、ラテンアメリカ文化の本質を知らずに布教することは害悪でしかない、と表明し(「慈善の裏面」:イリイチ論稿)、自らその教育をはじめたのです。
 この教育は、スペイン語の語学訓練とラテンアメリカの文化を知ることを統合したものです。この拠点は、CIF(Center of Intercultural Formation)と呼ばれ、CIDOCの前身となったものです。このイリイチ主宰のCIFは一九六一年に設立され、そこで学んだ宣教師の多くは、宣教の本質的な意味に目覚め、ラテンアメリカでの布教をせず、母国へ戻ってしまうことになります。このことに、北米のカトリック教会は勿論、バチカンまでもが憤慨し、イリイチはバチカンに召喚されます。この召喚時のエピソードは映画さながらのものです。

 真っ暗な地下に続く階段をおりていく先の、蝋燭だけが妖しく灯る部屋で、黒装束で覆面をした者たちに囲まれたそうです。「イバン・イリイチ、これより審問をはじめる」と。イリイチは、この時代錯誤の異端審問まがいの状況に憤慨し、審問表を奪いとると、階段を駆け上がり、多くの知人ジャーナリストに連絡、この状況を暴露したそうです。これでイリイチは事実上カトリック教会から破門されます。期待していた弟子イリイチの反逆的行為に当時の法王は相当なショックを受けたといいます。その後、イリイチは歴代の法王たちに批判を繰り返しますが、自らは毎朝祈りを捧げ、その信心ぶりは変わらなかったそうです。
 イリイチは山本に「わたしの信心は変わらない。ただ教会という「制度」を否定したのだ。わたしは、今もそしてこれからも敬虔なカトリック信者であり、信仰は守る」と語ったそうです。

 この巨人イリイチと山本は、クエルバナカという場所で同じ時を過ごしました。山本がその地に入ったのは一九七五年の四月、CIDOCが活動を閉じる一年前のことでした。CIDOCでのイリイチとの密度の高い対話は彼の思考の基盤となり、CIDOC閉鎖後も彼はメキシコに残り、その思考を深めていきます。結果として、彼は四年間、メキシコに滞在することになります。その理由を、山本は「ラテンアメリカという場所の深さ、一言でいえばバナキュラーな存在、感覚的に体感できるが知的には語られえないもの、理性的に思考しえないものを感知したからだった」と語っています。
 このイリイチとの出会いからはじまる四年間で山本は自らの思考を深め、その後、日本の文化資本、述語言語様式の言説生産をしながら、場所環境の資本経済設計に取り組み、新たな学術体系を創成していきます。

 この山本との交通によってわたしはようやくコンビビアルという言葉が纏う空気感を理解できたのです。

続く

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