無自覚

安倍元総理が山上徹也に銃撃されて亡くなった事件と、イスラエルが重なる。

安倍元総理は、自分が統一教会の広告塔になり、その統一教会によって苦しんでいる人がどれほどいるか、全く自覚がなかったのだろうと思う。「俺がどんな悪いことをしたと言うんだ」くらいの気分じゃなかろうか。肉体の脳みそがあったなら、この1年間に吹き出した信者の家族の悲痛な訴えから自分のしたことの意味を理解できたに違いないけれど、肉体を抜けてからだと、自分がどう言われているか見ていたとしても、理解できるかどうなのか。

力で押し切ればそれでなんとでもなる、と思っている方々は、その行為で苦しんでいる人がいることを自覚しない。自覚しないというべきなのか、他者の痛みを理解する人間性が欠落しているのか、どちらかだと思う。イスラエルの場合には前者だと思いたいけれども、もしかしたら後者かも知れない。
山上徹也の行動は、決して容認されるものではないけれど、極めて個人的には、彼がああした行動を「自分には、これしかない」と思い詰めた状況には、痛いほど共感する。どうしても責める気になれない。それはハマスに対しても全く同じで、権力だの軍事力だのを振りかざす個人や国家と、その被害者を並べた時、私自身は後者を責める気には全くなれない。彼の行動の結果として、世論が動いて、統一教会に対する認識が改まっている。
たぶん私は間違っているんだろうな、とは考える。彼の取った手段は、決して容認してはならない。ただ、おそらく彼は、結果において自分が裁かれることも覚悟の上であの行為に及んだと思えてならず、感覚的にはどうしても責める気になれないでいる。

もし、山上徹也が、穏便に「統一教会によって苦しんでいる人がいます。なんとかしてください」と、安倍総理に直接訴えたり、マスメディアに訴えて世論を動かそうとして、何か変化があっただろうか?まず、99%適当にあしらわれて、何も変わらなかったに違いに、と思えてならない。苦しんでいる人がいたとしても、「すぐに対処が必要な課題じゃないな」とか「票に結びつかないな」とか「視聴率取れないな」とか、そういうことで「適当」というよりも「テキトー」に扱われたに違いないという気がする。
私個人の認識では、確かに手段は容認されるものではなかったとは考えるけれども、感覚的には、彼は自分以外の統一教会による被害者を救済することに成功しつつあるし、自分たちが当選することしか考えていない政治家に対して、彼は、政治家が対応せざるを得ない(彼に取ってはほぼ)唯一の選択肢を取ったのではないか、と思えてならない。
非倫理的な主張をしていることは自覚する。ただ、被害の声に聞く耳を持たない政治家やマスコミの自覚のなさを考えたなら、私には「彼は正しいことをした」としか思えてならない。そして、それはハマスに対しても全く同じ。良くない、と言えば、確かに良くはない。どちらも人の命を奪う行為なのだから、手段としては決して容認できない。ただ、相対的に見てどちらがより「悪い」んだろうか、と、感覚的なものを否定できずにいる。

国連に加盟する世界中の国々で、アメリカだの、イスラエルだのの軍事力に軍事力で対峙しようとして、軍事力だけで自国を守れる国など、どれだけあるのか。ウクライナは決して技術力で劣った国ではなかったと理解しているが、それでもロシアの侵攻で苦しんでいる。
イスラエルによる「入植」は、ロシアほど露骨でないにしても、「反対するものは処分する」という、実質的には武力の行使による国境の変更に他ならない、と私は認識している。多くの国の「ダブルスタンダード」が気になってならない。
そして、イスラエルは、もしかしたら、パレスチナの痛みを理解できない人間性の欠如から、全く加害者としての自覚を持たないまま、今後も入植(パレスチナの生活圏の略奪)を繰り返すのだろうと思う。だとしたら、現状で、ハマスの取った手段以外に、イスラエルに「自覚」させる方法があったのだろうか、と思える。そして、どれほど多くの人が今回の武力衝突によって以前にも増して苦しんでいるパレスチナ人に共感したとしても、イスラエルが加害者の自覚を持つことは、不可能なんじゃないかと思えてならない。安倍元総理がそうだった。結局は、自民党のことしか考えない人だったのだろうと思う。イスラエルも、自国民が殺されたことの痛みだけは理解しても、自分たちの行動で相手が虐げられ、著しく不当な生活状況に押し込まれていることは理解できないだろうと思う。

山上徹也による安倍元総理襲撃では、安倍元総理に対する同情よりも、旧統一教会による信者の家族の悲惨な実態に対する世間の理解が広がって、今に至っている。

これまで、パレスチナの現状を「他人事」だと思っていた多くの人々が、山上ならぬハマスの襲撃によって、知ることとなった。おそらく、イスラエルにはパレスチナの痛みは通じていない。その意味では、ハマスによる「テロ行為」は無駄だったのかも知れないけれども、少なくとも、その後のイスラエルの「反撃」による破壊と殺戮の現場は世界が目撃することになった。

ロシアとかイスラエルのように「軍事力行使」しか頭にない、「人道的な施策」が選択できない国によって、ウクライナやパレスチナは侵略された。
どの国でも、「自国が、それに近い状況に置かれたら、どうするんだ?」ということを、考える必要がある、ような気がした。
日本の場合、すぐそばに、ミサイルによる先制攻撃も辞さない、などと公言する国がある。どうしましょ?って議論になると、やはり「敵基地攻撃」ができないと、国を守りきれないんじゃないか、という発想がどうしても出てくる。ただ、ウクライナ情勢だとか、パレスチナ情勢だとかを見ていると、対峙するのに足りるだけの軍備を増強する、というのはもしかしたら「下策」かも知れないと、思えてならない。際限がないもの。それは20世紀以前の発想だと思う。

昨今は、生成系AIによる画像合成などもかなり容易になっているから、ニュース映像も鵜呑みにはできない、というややこしい事情もあるけれども、やはり、軍事力行使などによる「悲惨さ」を、一つでも多くの国に共有してもらい、非軍事で協力して「軍事力行使」しか頭にない国を追い込んでいくしか、ないんじゃないかと思える。
そんな、軍事なんかに際限なくお金をかけていたら、国民が餓死したって気にならないくらい政治家が無自覚になってしまうこともあるみたいだし。やっぱりなぁ、発展途上の国ほど、教育とか医療とかにお金をかけられるように、国際社会が一定のコンセンサスを持つことが、何よりも大事なのかも知れない。

けれども、「自分の判断によって、どれだけ多くの人が苦しむか」という行為の結果について無自覚な政治家とか、なんとかならんものかと思う。

いいことではない、とは確かに思うのだけれど、山上さんも、ハマスも、加害者というよりも被害者に思えてならない。

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