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もう2度と会って話せない、でも会えたという事実は私の記憶から絶対に消えない。

2021/2/14 自分記録no.31「祖母が亡くなりました。」

こういうことってあまり書かない方がいいのかも、と思いながらも、今の気持ちをここに残しておきたいという自分勝手な感情が交差しています。

でも、人は忘れる生き物ってことを私は知っているから、今日は正直な気持ちをここに残しておきたいと思います。未来の自分にとっても、その方が何か残る気がするから。


一件のLINE通知。

昨日の早朝7時頃、兄からLINEが一通。

遠慮がちに、父方の祖母が亡くなったことを伝えただけのシンプルな一文。今すぐに帰らないといけない、その衝動に駆られました。

この日はお昼から仕事があったのですが、休まないといけません。でも、なかなか繋がらなくて。会社にかけても、社員さん2人の個人携帯にかけても、繋がらなくて。申し訳ないと思いながら、LINEでとりあえず連絡を入れて。

そのあと、折り返しの電話をもらい、状況を説明し、休みを頂くことができました。

電話で、こんな緊張したのは久しぶりでした。声が震えて、手が震えて、涙が出てきて。この電話をしながら、「あ、私の心は結構ショックを受けてるんだ」と客観的に考えている自分がいて、ちょっと可笑しくなりました。

とりあえず今日の仕事を休んで、次は別の会社に休みの連絡を入れます。色んなところで働かせてもらってる個人事業主だから、連絡を入れるところが沢山あって。

無事、もう一方の会社にも連絡ができ、週明けの月曜日を休みにして貰いました。

そして、次は高速バスの予約です。福岡ー宮崎間は、予約しないと乗れないバスなので、急いで間に合うバスを探します。

宮崎に帰ったとしても、コロナのせいで実家にはいけないからホテルに宿泊することになる。だから、いつもの帰る時の荷物よりも少しだけ多めに準備しなきゃ。バスが何時で、何を準備して、何時に家を出て、アタフタしながらも逆算して物事を組み立てられる性格になれたのは、きっとテレビ局で鍛えられたからですね。

それから3時くらいのバスに乗って、7時頃宮崎に着きました。

年末も帰れなかったのに、こんな感じでまさか帰ることになるとは。いつもは晴れ晴れした気持ちで駅に降り立つのに、今回は心がモヤっとしました。その理由は、お葬式とは別のこと。


存在を消し続けた、6年間。

私の家は色々と複雑で、というより私が複雑にしている張本人なんですが、父と母が離婚するよりもっと前から、父とは一切口を聞いていませんでした。

だから、自然と父方の祖母とも疎遠になっていたんです。


私は中学生の頃から、父の視界に私は入れなくない、と思うようになりました。同じ家に住んでいても、すれ違わないように時間をずらして、会ったとしても視線を合わせず背中を見せるように歩いて、とにかく存在を消して過ごしていました。

その原因は、色々あります。色々ありすぎて、もはや今は思い出せないくらい、きっととてつもなく闇が深い。だから言葉にするのは、尚更難しい。

それから私が高校を卒業し、福岡の大学に行くまでの約6年間、そんな苦しくて静かな生活が続きました。

両親は別居していたのですが、離婚が正式に確定したのは、それから2年後くらい。私が大学2年生の時だったと思います。

兄弟は父に会っていたことは知っていましたが、私は会う気にならなかった。


あの頃の自分に。

父には絶対会いたくないけど、祖母とはちゃんとお別れしたい。お別れをしないといけない。でも、絶対に父には会いたくない。あの人の視界に私を写したくない。声も聞きたくないし、姿も見たくない。

もし一瞬でも、姿を見てしまったら、声を聞いてしまったら、あの頃の自分に引き戻される気がして。あの苦しかった自分に戻ってしまったら、情緒不安定になって、仕事なんて手につかず、多分1人で福岡に戻るなんてこともできなくなって、最悪、「人間不信」というか、自分が自分でなくなってしまう、そんな気がして、怖い。

どうなるのかなんて、自分でも分からないけど、なんか、そんな気がするんです。

最悪の状況になることは避けたかった。

だから、受付前にサッと祖母の姿を見に行くことにしました。兄と弟の力を借りて。


10年ぶりに会った。

葬儀場に着くと、兄と弟と一緒に父の妹・叔母さんがいてくれました。

かれこれ、叔母さんと顔を合わせるのも6年ぶりくらい。「来てくれてありがとう」そう言われました。父と私に何があったかなんて、叔母さんはきっと知らない。でも、“何か”あったことはその状況で分かってくれてる。6年ぶりに会えた叔母さんは、相変わらず物腰が柔らかくて、優しい顔のまんまでした。

そのあと、兄と弟と祖母に会いに行きました。

お花の先生だった祖母は、色鮮やかな花に囲まれて、私の記憶のまんまの祖母の姿が写真の中に居ました。

そして前に進んで、棺の中を覗きました。

棺の中に居た、祖母の顔は、私の記憶にある顔とは少し違いました。元々ふっくらとしていたけど、でも目の前にいるのは一回りくらい小さくなった祖母の顔でした。

写真の顔は見覚えがあっても、棺の中の顔は、少しだけ別人に見えました。


祖母の状態が悪くなっていること・会いたがっていること、つい2ヶ月前くらいに兄から連絡が来たけど、コロナ禍の中で宮崎に帰ることはできなくて。

中学生なりに10年前から、今日みたいな日をいつか迎えるんだろうなって薄々頭にはあったけど、まさかこんなに早く来るなんて。自分の気持ちが整わないのに、祖母はいなくなった。

生きているうちに会えなかった。父と母が離婚して、父と私の関係が真っ白になって、私と祖母も段々遠くなっていって。

もし中学の自分がこの未来を選んでいなかったらきっと普通に会えてたんだろうな、とか。

もしそうだったら、私もちゃんと親族席に座って、来てくれた人それぞれにお辞儀をして、お迎えしてたのかな、とか。

こんなにモヤモヤと考え事に揉まれなくて、純粋に祖母とお別れできたのかな、とか。

少し痩せた祖母の顔を見つめながら、そんなことを考えていたら、涙が溢れて、溢れて、止まりませんでした。


会えたという、事実。

生きているうちに会えなかった。生きているうちに話ができなかった。生きているうちに…何か私にできることはあったのかな。

タラレバなんていくらでも言えるけど、でも、私はこの未来を選んだ。たった30分だけだったけど祖母に会えた。

この事実だけはずっと変わらないし、やっと会えたからこそ私の心は少しだけ軽くなりました。


父に会いたくないから、葬儀の前に少し顔を出すだけで、お通夜も葬儀も欠席しました。申し訳ないことをしたな…と思うけど、きっと分かってくれていると、勝手ですがそう思うことにします。


私がいる間に、東京から従姉妹も来てくれて。上のお姉ちゃんは今年結婚して、その旦那さんも一緒に。

従姉妹に会うのも、6年ぶり。

久しぶりにあって、見た目は大人っぽく綺麗になってたけど、笑い方とか話し方は全然変わっていなくて、昔に戻ったみたいで嬉しかった。

6年ぶりだったから色んな話をしたかったし、色んな話を聞きたかった。きっとこの6年で色んなことが変わって、今何をしているのか、何を考えているのか、会わなかったこの6年の時間を、少しだけ知りたかった。

でも、私に残された終わりの時間が迫っていて、コロナが落ち着いたら東京に遊びに行くね、とだけ伝えて、父に会わないように、私は早足で葬儀場を後にしました。


ずっと会っていなかった。いつの間にか、10年もの月日が過ぎていて、祖母はこの世界からいなくなった。

この歳だとまだ、身近な人が亡くなるっていう経験は片手で収まるくらいしかありません。だからこそ、今回のことは、私の心に、これからも、深く残ると思います。


兄から聞いた話ですが、亡くなる3日後、本当は18日に自宅に戻って、緩和ケアに専念するはずだったようです。でも、病気が急変して、13日の早朝亡くなりました。

突然のことで驚いたけど、このコロナ禍の中、ちゃんと葬儀ができて、会えてお別れができて、従姉妹揃って並ぶことができて、当たり前のことだけどそれができたって事は幸せなのかな、と思いました。

連日、ニュースを騒がしているコロナは、感染したら隔離され、もし亡くなったとしても面会できず、火葬して骨だけ手元に戻ってくると聞いたことがあります。

それは、本当に苦しくて、やるせない。誰が悪いわけじゃないとしても、心の中にある葛藤が、想像しただけでも涙が止まらないです。

そういう状況のなか、ちゃんとお別れができた私は運が良かったのだと、そう思うことにします。


葬儀場の外から手を合わせようとか、そういうことも考えていたから、自分自身の中で色んな葛藤があったけど、思い切って会いに行ってよかったです。

父への言葉にできない苦しさは、多分これからもずっと変わらないし、ずっと消えないことだけど、祖母にも会えて、コロナ禍の中祖母のおかげで6年ぶりに従姉妹にも会えて、孫5人揃って祖母の前に並んで立つことができて、それはきっと祖母からの最後のプレゼントなんだろうな、って思います。

会いに行けなくて、ごめんなさい。

心配をかけて、ごめんなさい。

どうか、どうか、穏やかに過ごせますように。


棺の中の、祖母の顔は、少しだけ、笑っている気がしました。わたしには、そう見えた。


おりょう☺︎






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