猫を拾わなかった日。

ある秋のよく晴れた日の午後、僕は一匹の黒い猫を拾わなかった。

偶然だったのだ。偶然、偶々。その日は確か文化祭の前日か何かで、昼食も取らずに学校を出た。そうでなければ、明るい時分に帰ることはほとんどない。模擬店を出すらしい級友たちの熱気は、どこまでも他人事のようであった。適当な理由を付けてHRを抜け出し、自転車のペダルに緩く足をかける。山の上にある学校から、海沿いの家まではずっとまっすぐの下り坂。帰るのもなんとなくおっくうで、普段よりずいぶんゆっくりと流れる景色を、ぼんやり眺めていた。そうでなければ、気付くこともなかっただろう。視界の端、石を積んだ塀の裏に、見慣れぬ黒い点をとらえた。
 
 点が「ミャオ」と言ったので、僕はようやくそれが子猫であると認識した。丸まった毛が微かに揺れているのは、なぜだろうか。風のない暖かな日だった。動物を飼った経験は無かったが、それでも、この猫が生まれて間もないのだろうということは安易に判る。それほどまでに小さな身体に、不釣り合いなほど大きな瞳が埋まっていた。

きっと青色だ。

 僕が自転車を降りて彼、ないし彼女を抱き上げることはついぞ無かったので、今となっては確かめようもないのだが、__きっと青色の瞳だったのだろう。ネコ科の赤ん坊は揃ってビー玉のように綺麗な青色をしていると、何かで読んだ記憶がある。とにかく僕には、この子を形作る全てが、愛されるために設計されたように思えて仕方が無かった。いちいち身体全体をめいいっぱい飛び上がらせるようにして動くものだから、黒い毛玉がひとりでに跳ねているようにも見える。時折、目が合った、と思うのだが、それは子猫が、この世界のありとあらゆるものを純粋な好奇心のままに観察しているからに過ぎない。ようやく僕に留まったかと思われた視線は、すぐ後ろを猛スピードで過ぎる軽自動車に、まだ満足に立ち上がらないらしい耳もろとも奪われてしまう。

不意に、西洋のことわざが頭をよぎる。この愛らしい毛玉が、その無垢な好奇心を携えて車道へ飛び出しでもしたら。僕は恐ろしくてたまらなくなった。そうなってしまえば、あとはもう、この猫は前と後ろの両方の車輪の下敷きになって死んでしまうに違いない。この悪質な妄想にすっかり侵されていた。「ミャオ」と、何も知らない子猫が鳴いた。

 今度こそ目が合った。金色の瞳が、まっすぐに僕の姿をとらえる。子猫ではない。いつからか塀の上に居た成猫は、音もなく地面に飛び降りた。あ、と声を出す間もなく、子猫は首を咥えられて民家の裏へと消えていく。一瞬でも、連れ去られた、と思った自分の傲慢さに嫌気がさした。この浅ましい考えを見抜くような親猫の鋭い視線が今も忘れられない。地面を強く蹴って車体を前へ押し出す。勢いづいて空回り、何度も踏み外しながらペダルを回す。熱った頬と、背中を伝う汗とが風で冷える。今はただ、早く家に帰って家族の顔が見たかった。


ずっとノートパソコンのメモに残しているのも何ですからね。

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