もゆる毛皮。

今年の冬はよく冷える。

帰宅して真っ先にエアコンの暖房を入れる。風を直に受けてみるも、運転はじめは心なし、外気がそのまま送られてくるようなつめたさだ。もたもたと上着のボタンをはずしにかかる。もたもた。言い得て妙だ。結局あきらめて、中途半端な身のまま石油ストーブの火を起こす。じっ、じっ、ぼっ。小さい爆発みたいのが起きて、指先がじんと温まる。皮膚の下を血が巡り、筋肉を撫でる感覚。人類の叡智_などと、科学館のスケールでの感謝に、自分一人で思わず笑った。化学繊維のマフラーがすぐに熱を持ち始めるので、ようやく装備を外しにかかる。今夜はたっぷりお湯を張ろう。肩までつかったらお湯があふれる、銭湯くらい。

16年。ものごころがついた頃から、一緒に暮らす犬がいた。血統書までついたチワワだったが、街を歩けば、何とのミックスですか?と必ず聞かれるほどに胴長で、貰い物の服はだいたいがつんつるてんになる。キュウリとレタスと、おじいちゃんがこっそりあげてしまうマクドナルドのポテトが大好きな犬だった。が、死んだ。

獣医にはこの5年くらい、血液検査の結果のなんだかわからない数値を指して、数値がよくないから、いつ食欲が無くなるかわからない、そうなったら、もっても1週間だから。と言われていた。宣告を受けた当初こそ悲しくて、毎日のフードをちょっと良い、パウチ入りのやわらかいものにした。ところがどっこい、結局死ぬ2日前までその「ちょっと良いフード」を完食し続け、それでは足りぬとぼくの皿を常々狙い、急にぐったりし始めたと思ったら、珍しく一晩中ぼくの隣で横になり、3回鳴いて逝ってしまった。なんだ、それ。聞いてたのとまるで違うじゃないか。

あんまりにも大きな悲しみと、驚きとで、どうにかなるんじゃないかと思ったけれど、その実結構冷静に、火葬の手配やら保健所への電話やらを済ませた。多分、親が死んでもこういうんだろうな、という具合だ。昔は犬猫が亡くなれば山に埋めたり、田畑で焼いたりもしたらしいが、最近は、炉を積み込んだ車というのがあって、庭先で2時間も待てば箸で骨まで上げさせてくれるのだから、感心する。一丁前に頭蓋骨で、フタをしながら、もうすこし長く、あのやわらかだった体毛を、手元に残しておけばよかったなぁ、と、こんなときまで、もっと遊んでやればよかった、とか、そういうんじゃない後悔が浮かぶので、つくづく、嫌になる。10月の半ば。ようやく夏の暑さから開放された、空の高い日のことである。

今はといえば、我が家の食卓が、すっかり平和になったくらい。虎視眈々と ぼくの白米を狙う獣が居なくなり、黒いコートをいくらコロコロしても湧いて出る白い毛も少し落ち着いた。レタスの葉っぱの1枚くらいは供えてやる。どうせなら、唐揚げもおまけしようか。どうだ、死ぬほどうまいだろ。別に、よく陽の当たる大きな窓でカーテンが揺れたからって、落ちた毛布が丸まっていたって、作業中ぼくの左手が、椅子の下の空気を撫でたって、君が居るわけはないのだ。

冬の日の、よく冷えた朝。布団の真ん中を陣取って眠る犬の腹に、手を滑り込ませる。とっとっとっと、小刻みな心音。ブルーの瞳。上下する熱。ぼくの愛おしい毛皮。君がいないと、足が寒くて敵わない。

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