超えない段差。

通勤ラッシュの駅構内で寝転びたい。

人に迷惑をかけたいわけでも、まして、注目を集めたいということでもない。できることなら、その場から消え去ってしまいたいと、思う。酷い乗り物酔いで、細かく震えるというか、ほとんど痙攣している両足を、なんとか交互に前に出す。歩いているとは、とても言い難い。目的地にたどり着くためでもなく、ただ、自分以外がそうしているから、そうしている。喉の奥に何かがつっかえているような気がして、うまく息ができなくなる。加えて、マスクのせいで空気も薄い。朦朧とする意識の中で、満員電車で分け合う酸素の量を考える。みんなマスクをしているのだから、車両の中のそれは、普段より多いんじゃないかとか、そんなこと。改札でまごついて、後ろから舌打ちが聞こえた。それさえも、本当のことなのか、まるで判別がつかない。朝なんて。今すぐにでもしゃがみこんで、寝転んだら、床は冷たくて気持ちいいだろうか、そうしてしまいたいけれど、しない。できるのに。選ばない。荷物がどんどん重たくなる錯覚。すれ違い様に、少しずつ、いらないものを詰め込まれてるみたいに。本はどこまで読んだっけ、しおりを挟んだ記憶は、今日ものなのか、昨日のものなのか、それとも、ずっと先のこと。

階段の途中で立ち止まる人がいる。大抵、まばたきもせずに、遠く先を見つめている。人は、それを無いもののように、できるだけ見ないようにするか、反対に、怪訝な目で、訝しげにじろじろ、しながら、避けていく。僕は、羨ましくて、見るのだけれど、もっと見ていたいのだけれど、後から後から、ひっきりなしに来るものだから、人が。足を動かさないでは、いられない。すみません、お隣、いいですか。腰をおろすことが、いつかあるだろうか。そのときは、ホームでパンを買おう。甘いバターの香りを、正しく受け止められるだろう。余裕のあるときでなきゃ、よいものを、よいものとして感じられないのだと、思う。自分のよい部分と、遠慮がちに、ほんの少しだけ触れ合って、結ばれて、ようやく、よいものが見えてくる。ものを見ているのは、目じゃなくて、別の。あたま?あくまで、見るための道具なのを、いつもは忘れているだけ。忘れ物だらけだ。一体、今はなにを、覚えているのだろう。

水を飲む手にすら、うまく力が入らない。大切なものほどよく落とす。外したブックバンドを手首に巻いておいたのに、いつの間にか失くしてしまうことがあった。金具が外れてしまったのか、それとも、気づかないくらいに簡単に、腕を抜けてしまったのか。確かに、僕は、頼りがない。けれど、一言くらい、かけていってくれても、いいじゃないかとも思う。電車もバスも、いつでも好きに窓を開けられたなら、うまく歩けるようになるかな。前に立つサラリーマンの新聞を、裏からこっそり読んだ。音漏れしたイヤホンの、シャカシャカとしか聞こえないのは好きだ。歌詞も、メロディも、そこにはない。肩に知らない誰かが寄り掛かって眠っているときには、じっと息を殺して、まるで気づいていないようなふりをする。そうすることで、そこに座っているのを、許されている。日々の、生きる理由なんて、せいぜいそれくらいのもで、必要とされていないときには、漠然と、恐ろしい。自分の代わりはいくらでもいる。もちろん、きみの代わりも。掛け替えのないものなんて、どこにもない。ボタンを掛け違えたシャツだって、ボタンと、ホールとがひとつずつあぶれるだけで、他はきちんと、ハマっているじゃないか。でも、やっぱり、なんにも知らないフリをする。まるでたった一つの、尊いものを扱うように、駅の階段を登っていく。決して立ち止まっちゃならない。あぶれたボタンを見つめてもいけない。だからいつでも、忘れてしまう。

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