抜けない画鋲。

新年度に向けて、新しいノートを買った。
ちょうどまでとはいかなくとも、2、3ページを残して、あとは真面目なテキストで真っ黒だったり、端々で絵しりとりに興じていたりで、使い切った!という感じがすると、心の凹の部分が少し潤う。
買い換えると言っても、商品自体はもう、自分の中で、コレ、というのが決まっているので、インターネットを使うようになった。文房具屋さんでワクワクするには、少し時間が足りない日々。
しかしまぁ、普段よりふたまわりは大きいノートが届いた。注文を間違えた。A5を頼んだつもりが、B5のノート。A4だとか、その半分のA5なら、手にとってどのくらいか想像がつくけれど、Bサイズになると、とたん、ちょっとむつかしい。
A5が148mm*210mm。対してB5が182mm*257mmと、具体的に数字を出すと、そう違わないような気もしてみるが、体感では2.5倍はある。
自分のしでかしたミスではあるが、数年振りの「未知」のノートが、何か新しいものを呼び込むのではないか、そしてそれが、いいものなのではないかという、根拠のない期待が、むくむくと育って、あとは、4月を待つのみである。

ノートもそうなのだが、いつからか、僕は、身の回りにある物に、変化を望まなくなった。小学生の頃などは、新しいキラキラのペン、前よりも可愛いシール、次の通信までには、ポケモンももっと強くしておかなくては、気が済まなかった。何より、クラス替えの度に、これで人生が変わる、と本気で思っていたし、たった数週間で変わる席の並び順にさえ、涙を流すほど一喜一憂し、うさんくさいおまじないを頼って、赤いペンで好きな同級生の机を毎日3回叩いてみる始末だった。
それが今では、毎年同じシリーズのスケジュール帳を買い、多色ボールペンはインクを交換しながら、筆箱はもう6年同じものを使っていることに、安心感すら覚えている。どれも決して高価なものではないし、いつか壊れる時はくるのだが、とっくに廃盤になっていたり、どうしても比較してしまったりで、なかなか新しいものに乗り換える腰は上がらない。

特に顕著なのは、交友関係だろう。新しい友達が欲しい!まして、たくさん欲しい!だなんて、これぽっちも思わないようになってしまった。これは、良い友人に恵まれていることもあるだろうが、それにしたって、仲良くなりたい、と思わないことが前提のコミュニケーションは、第三者の目線に立ってみれば、面白味はない。停滞である。
コミュティは、円で表されることが多々あるが、僕の円はもう、めっきり閉じてしまったなぁと感じることもある。先日、古い友人との間に、お互いの友人同士を合わせれば、きっと話は弾み、仲良くなるだろうが、それでも会わせたくない。という話題が上がった。類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので、結局、数年交流の続く友人たちの間には、似通った空気があるので、自分がもっている「いくつか」の輪は、きっとその気になれば、もったりとくっついて、2つ分の大きさに広がるのは確かなのだが、それは避けたい、という心理である。
「笑顔の輪をひろげよう」みたいな標語を、教室の壁に掲げたあの頃の自分は、それこそが善いことであると信じて疑おうともしなかった。疑えるとも思っていなかった。生徒には届かない黒板の上に、画鋲で画用紙を貼り付けるときに、先生は何を思っていたのだろう。

隣のお友達と手をつないで、なんて言葉に、ためらうようになることを、誰も教えてはくれないから、映画を好きになったんだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?