冷たい涙。

最後に泣いたのはいつですか。僕は、いちいち覚えていられないほどにしょっちゅうです。なんとも情けがないけれど。
情があるから泣くんだろ、なんて思っていたけれど、涙が出るとき、きまって体は熱いのに、涙は冷たい。爪の食い込むほど握り込んだ拳に、本当にパタパタと音を立てて落ちて、それで、体も気持ちも思考も置いてけぼりにして、ひとまとめにして惨めだなぁと他人事みたいに眺める嫌な冷静さだけ遠くに行ってしまう。
自分を守るための機能の「自分」に、その辺り入れてもらえない。仲間外れでいるのに耐えきれず、注意を引きたくって大声を出した。小学生のころとかは、何十枚も年賀状を送って、それを誇りにしていたっけな。年末の掃除のときに、ガムテープでまとめてゴミ袋につっこんだ。

高校に向かう通学路は山道で、おまけに行きが登り側。車通りだけは多い県道を、ロクな歩道も白線もないのに、自転車で毎日走っていた。その道以外は暗くて、昔、学校の先輩が刺されて殺された事件を思い出すらしい親がいい顔をしないから。折角五段階もあるギアーは壊れて、一番重たいのしか入らない。
直線距離にすればそうでもないのに、ついでに向かい風まで強くって、二度と登ってやるものか、と何度も呟く。叫んだ所で、山と畑と田んぼには、鷺でも居ればいい方だが。あんなに大きな鳥は夜、一体どこに帰るのだろう。

部活で帰りの遅くなった日に、息を吸い込むたび鼻の奥がツンと痛い、冬にほど近い秋だったか、いつもの通りに腕に反射材を巻いて、ハイビームで走ってくる対向車にひかれぬように家へと道を下る途中に、前を走る車が急ブレーキを踏んだ。そのままゆるゆると発進していったが、後続も同じ場所で赤いランプを点灯させる。
大きなゴミでも落ちているのかと思った。歩行者の滅多に通らぬ道には、時々、なんでこんな物が、というものが捨てられている。この先日も、タイヤのホイールが、1つ、どんと落ちて、長い渋滞ができていた。
自分もとうとう、その場所に差し掛かって、行き交う車のライトに照らされたそれを見て、ブレーキを両方とも引いて、革靴の底がすれるのも構わないで自転車をとめた。山から田んぼへ、道を横断する途中で不運にハネられたのだろう、別に珍しくともなんともない。タヌキか、アライグマの死体。暗がりで判別のつくほど野山を駆け回る幼少期ではなかった。ひっきりなしに来る車が、何度もそれを乗り上げるようにする。

放っておいていいものを、なんとなく、スマホを振って道を塞ぎ、素手で触ってはまずいよなぁとジャージを入れていたビニールの袋を手にかぶせて、転がっていたそれを傍まで引き摺った。繰り返しはねられていたそいつは、驚くことにまだ、ほんの少し息があって、寒さにしみる暖かさを持っていた。
これが猫とかなら、カゴに乗せて病院まで走っていたりしたのかな。いともたやすく行う命の選別。すっかり暗い中、車のライトが当たったときだけ、自分と、今にも絶えそうなこいつの吐く息が、白く浮かんで、ほどけて消える。だんだん、腹の上下する間隔が緩慢になってきた。昔父に、道で死んでいる猫を見てかわいそうだと思ってはいけないよ、と言われたけれど、あれはどういう意味なのだろう。祖父の死に目に立ち会うことはついになかった。今のところ、命が、それを失う瞬間に立ち会ったのは、この時だけだ。

すっかり冷たくなったそれに、袋越しに手を当てたまま、もう片手では、野生動物の死骸にあったときの対処を調べていた。交通の邪魔になる場合は、道路緊急ダイヤル、なんてものに連絡するらしい。道のはじまでひっぱってきたから、車の通行の邪魔になんてならないし、わざわざ回収なんてしてくれないだろう。でも、避けてきたここって、明日の朝になったらまた、自転車で通るんだよな。今は暗いから、よく見えなくていいけれど、陽の下でまともに見たいようなものではないし、一週間くらい電車で通学して、次通った頃には、他の動物が持って行ったのか、農家がどかしたのか、探してみても、見当たらなかった。あんなに見たくなかったのに。自分で看取ったからかな。
大切な人が死ぬときは手を握っていたいな。胸のとこに手を当ててれば、息をしなくなったらすぐにわかるし、手が冷たくなってくのを、今度はビニール抜きに、直接感じよう。そしたら、ずっと、いくらでも見ていられる気がするんだ。

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