夜に迷子。

ここはどこだ。

僕は一体、何者だ?とはならない。前者にはなる。幸いなことに、もしくは、残念ながら。記憶もちゃんとしているし、身分証明証だって持っている。けれど、そういうことじゃないんだって。自分がどこにいるかわからないときは、そういうことを考えてしまう。知らない道には、そんな力がある。夜中なら尚更。

昨晩、普通であれば15分かそこらの道のりを、きっかり1時間かけて帰宅しました。別に、寄り道をしていたわけじゃあないのです。何度か行ったことのある場所だったし、ナビだって起動していました。「わかる」人には、全くわからない感覚であるとは思うのだけども、そんな条件下でも、迷子になるときは、なる。自分でも、不思議に思う。

ムーヴL175S。もうすぐ10万キロに届きそうな中古車を、さらに父から譲り受けたもので、舗装の怪しい道だと、タイヤの振動がほとんどそのままシートに伝わるので、蓋のない飲み物は危険。一丁前にターボ付きなので、アクセルを踏み込めばぐっと加速するけれど、ドライバが僕なので、残念ながら活躍の場面は少ない。免許を取得してから、優に一年が経過しても、怖くて初心者マークを外せずにいる、僕の愛車だ。あだ名は委員長。シートベルトをしていない時の警告音が、「ちょっと男子ィ!ちゃんと掃除しなさいよね!」と言っているふうに聞こえる。関東に引っ越したら、手放すことになるだろうから、あと数ヶ月の付き合いだ。誰も載せない後部座席には、ビニール傘だけが溜まっていく。僕の見ていないうちに、誰かが放り込んでるんじゃないか。傘って、捨てるのがなかなか面倒だし。

路肩に車を停めて、地図を確認。月は出ているけれど、それで方角を判断できる知識があれば、とっくに家について、誰かの配信でも見ていた。グーグルマップは、方向音痴に全面的な信頼を置かれているという自覚をもっと持って精度向上に努めていただきたいな。このまままっすぐ走らせれば、大きな道に出られそうだったので、ウィンカーを出してから発進する。我ながら、律儀。前にも後ろにも、他の車のライトどころか、街灯の一つも見えないが、頭上に通る高速から光が漏れているために、随分明るく感じられた。

自由があるとすれば、きっと今だ、と思ったけれど、自由な気分を味わっているのに過ぎないのも知っていた。燃料の続く限りの自由。(メーターはほとんど、満タンに近い。先日入れたばかりだ。)道の続く限りの自由。(人の敷いたレールの上以外を、どうして進めようか。)時間の続く限りの自由。(後に予定がないか。死んだら、少なくとも、運転はむつかしそう。)限りある自由を、僕たちは楽しむことができるのだ。移動し続けているのが、一番自由に近い気がするれど、そうしたら、不自由なんて、どこにもなくなってしまう。地球が常に動いているから、止まっているように思っていても、思い込みでしかなくて、動いていないフリをしているだけで、だるまさんがころんだ、みたいだ。それも個人の自由と言ってしまえば、それまでになってしまいますが。ところで、時間の許す限り、と言うけれど、許されなくなったらひょっとして、時間に叱られるのだろうか。

小学校3年生のときに、通学路で迷子になったことがあった。風邪が流行っていたために、近所の子たちがみんな学校を休むか、早退してしまっていたので、学区の端ギリギリに住んでいた僕は、途中から1人で帰らなければならなくなった。自分の体重の半分くらいはありそうなランドセル。空になった水筒を持って帰るのが、随分億劫だったのを覚えている。ペットボトルを駅のゴミ箱に捨てるのは、戦闘機が増槽を切り離すみたいだ。そのときは、ただでさえ1時間近くかかる道のりを、倍もその倍もかけて歩いたように思う。正確には覚えていないけれど、夏前だというのに、家に帰る頃にはどっぷりと日が暮れていた。曲がる道を間違えて、住宅街に入り込んでしまったので、同じような道を、おそらくは、同じ道を、何度も何度もぐるぐるとしていたのだろう。「怒り」という映画を観たことがあれば、犯人が殺人を犯した時の回想に、かなり近い状況。その時には自由を感じなかった。このまま帰ることができなくなったらどうしよう、このまま誰にも気がつかれないで、死んでしまうかもしれない、と恐怖していたのかもしれない。恐怖は自由と遠いらしい。行き止まりにぶつかったときに、回れ右をするのが一等辛かった。集団行動は得意ではないけれど、1人旅をする気にならないのは、この記憶のせいだろう。

写真を撮ったり、目に見えた看板を口に出して読んでみたり、様々の方法を試したけれど、方向音痴が改善される様子は、今のところ、全くない。ゲームをしていても、しばしば迷子になるので、横スクロールくらいのマップが丁度良く遊ぶことができる。マインクラフトで、座標のプラスマイナスを間違えたときには、かなり痛い目をみた。携帯を忘れて出かけたときは、どれだけ気になる小道があっても、決して入っていかぬよう自制する。時折誘惑に負けるときには、負けたくてそうしているのだ。

ようやく知っている道に出ると、車通りも多くなった。ハイビームにしたままの対向車。視線をやや左にずらしても、眼球がギュッと痛む。戻ってこられた安堵と、戻ってきてしまったな、という少しの心残り。つまり、楽しいドライブになったというわけだ。重力が足元へ働いているうちは、いつか帰れるのだし、そう悲観することでもあるまい。迷子によってもたらされた素敵な出会いもある。2回目、辿りつけるかどうかは別として。

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