スクラップ&ロスト

1年も街を離れれば、その様相は随分と変わってしまう。地形に極端な特徴があるか、なぜだか潰れない布団屋を目印に歩く。前入っていた店の名前も思い出せないテナントビル、オープンした時だけ繁盛していたラーメン屋、閑古鳥の巣があるのはおそらくあの辺り。僕が見ぬ間に3度も看板が塗り替えられたらしい。

僕は普段、築40年、4階建て、コンクリート打ちっぱなしのオンボロビルで過ごしている。ワンフロアギリギリに作られているせいで階段に踊り場は無く、ドアを開けるときには部屋の内側からもノックしなければあわや人を突き落としかねない。左側には大きな窓があるが、これまた大きなスチレンボードがぴったりとはめ込まれていて、これは数年前にマンションが建設されたためだ。住人のプライバシーに、僕の日照権は捧げられた。そもそも、商業用の土地なので、日照権という概念は元より存在していない。右手には分厚いガラスのルーバー窓。ハンドルで開閉する、ちょっとレトロな仕掛け付き。(ガラス同士のぶつかる、ガシャンという危うい音を、僕は気に入っている。)この僅かな採光も、今では風前の灯火だ。

というのも、なんと十数階建のビルが建つというのだ。竣工予定は2年後。僕は来年度にはこの土地を離れるので、その影響は薄い、なんていうことはない。むしろ1番大きな影響を被る、過言では無い。それもそのはず、地盤工事の喧騒といったら、同じ部屋の中で会話を成立させるのに、通話アプリに頼らねばならぬ程だ。面と向かっている相手と、更にzoomをしようものなら(その上、バーチャル背景などを設定してみろ)、脳みその処理は否応にもバグを警告する。平日の昼間に、教育番組で「むし歯菌」が持っているようなドリルの音が、ドッドッドッドッ、アスファルトを砕き、食後の内臓を小刻みに揺らす。その上このご時世なので、換気のため、と部屋を締め切ることも叶わない。コロナめ!!

時に、笑い、というものは、「間」と「ギャップ」によって形成されるものである、と考える。強面の人情派、とぼけたことは、いかにも真面目そうな人物が言う方が面白い。つまり、硬いアスファルトがあっけなく粉々になる様子は、かなりシュールだ。むくむくと笑いが込み上げてくるのを必死に堪えるので、口元がマスクで隠れていてよかった。コロナ、ありがとう!!

そこに在る物が、駐車場でさえビルでさえ、鉄の塊でさえも、明日もそこに在るとは限らない。形そのままに存在し続けるものはない。舗装された道を歩く時、街中を歩いている時は、その道が舗装されている、とさえ意識していない。まして、次の一歩を踏み出したその先が崩れ落ちるなんて、想像もしないだろう。一々そんなことを考えていては身が持たないのだろうな。楽に生きるために想像力は必要ないのだ。昔は楽をするためにこそ必要だった力も、現代のシステム化された暮らしの中では、出る杭に他ならない。疑問を持たず、空想を抱かずに生きること、果たしてそれは、本当の意味で生きているのだろうか、そんなこと、誰にもわからない。明日から無人島で生活してね、なんて着の身のまま放り込まれたら、実際、困りますしね。

物質が形を失うとき、それは「死」に類するものなのだろうか。駐車場の死、ビルの死、おもちゃの死、顔でもついていれば、多少結びつける人は多くなるかもしれない。

街は日々入れ替わる。僕たち、生物の体となんら変わらない。古くなった細胞が排出され、新しい組織が築かれる。その連続の中に、たまたま意識を持っているに過ぎない。それら全てを悼んでいては、前に進ことはままならない。失われていくもの、こと、全てに目を向けることさえも。その中で何が残るのか、何を残すか。誰にもわからない。明日起きたら何も無くなっているかもしれないし、明日が在る保証さえどこにもない。僕にできることといえば、崩壊する街に祈ることくらいのものだ。失くすのも、得るのも、どうか、どうか緩やかに。

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