忘れた明日。

駅をふたつ乗り過ごす。長椅子にそれぞれ2、3人が眠っている。読みかけの文庫本は上着のポケット。夜はまだずっと先を走っているみたいだ。

夏の雲と、工場の煙突から絶えず生まれる煙とはよく似ている。幼い時分は、世界中の雲と、まつりの綿菓子と、羊とを、その工場が作っているものだとばかり思っていた。みんなおんなじだと思っていたのに、世界を知るたびにひとりになっていく。誰一人として僕ではない。もちろん、僕を含めて。毎晩のように爪を切るよ。薄い皮。はねた欠片を踏んで足の裏がチクリと痛んだ。痛いのは僕で、床に落ちたそれは僕じゃない。何が僕ですか。腕は、脚は、あたまと心臓、どちらを僕と呼んでくれますか。何を抱いて泣いてくれますか。切った髪にキスして。僕から離れた肉を、死んだ細胞を、それらを僕と呼ぶのなら、きっと僕は必要ないよ。いつでも必要がないし、必要なときだけそばに居られるよ。それで、一緒にひとりだよ。

夏が終われば秋がくると思っていたの?

朝市に燦々と響く女たちの声。港に還る男たちの潮の匂い。蟹穴で遊ぶ子どもらの無垢な瞳は、砕けた甲羅を映して、尚も輝く。遠の昔に死んだ貝殻がそのやわい肌に刺されば、君たちはその瞳いっぱいに海を宿すだろうに。

なぜ旅人を描きたがるのだろうか。故郷の数え歌を教えて。

こまかく噛んで飲み込む力なんてもう誰にも残っていない。味のついたゼリーを流し込んで。お望みはこれでしょ、満足でしょ、どこが違うのか、ちゃんと説明がつく?せいぜい、オレオの中身のクリームだけを食べるのは、もう叶わないね。ごめんね、君が悪いんだからね。

自分が特別じゃないのにいつ気が付いた?

親になるような人は、きっと何も考えてない。よく考えたらわかるはずだ。どんなに恐ろしいことなのか。はじめて人に触れたときのことを思い出してごらんよ。どれ程の強さで触ったら壊れてしまうかわからないものには、はじめから近付かないほうがいいのはよくわかっているでしょう。馬鹿なふりだけが上手い人たち。僕の体温も知らないで。舌の上で溶ける接着剤。下の上。お前さえいなければ、と思う己を殺す必要はどこにもない。何も、理由になってやることはない。イヤホンで耳を塞いだ。点滅する黄色信号。いくら待っても、灯りの消える間隔は変わらない。マスク越しの吐息。アクリル板にサインしたげる。視線が交わるのは、互いの瞼の下とは限らない。伸ばして、結んで。固く。解けないように。決して手を触れてはいけないよ。約束だ。

背筋を伸ばすとき、天井から糸で引っ張られるように、最初に教えてくれたのは誰だろう。随分息がしやすくなる。生きている責任を、他の誰かに譲ってしまうから、前を向いて歩いていける。みんな誰かに操られているんだから、好きも、嫌いも、なんにもなくなった。気付いてない子たちには教えてあげるんだ、こっそり。おやつを用意してあるから、手を洗って、砂糖は2つ、それから、大事な話をしよう。足はまっすぐ前に出す。砂浜を歩くときに、振り返って確認するんです。内側でも外側にも傾かないでいたい。もちろん足音の鳴らない靴で。石の床も静かに踏んで、どこかに身を隠して、口には両手を。目は瞑りません。机の端に乗っている醤油も自分で取れるから。

お守りに小さな布を抱いて眠る、工場から届けられたできたてのわた(・・)は、眠ってから空で捕まえてこようと思う。

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