熱と死。

人は死んだらどうなるのだろうか。

かくいう僕は、死んだことがないからわからない。まわりにも、死んだっきりの人はいるけれど、もれなく死んだままなので教えてくれたことはない。知らなくたって生きてはいける。何にも考えなくたって、みんないつか死ぬ。これを書いている数秒数分の間、この瞬間にもアフリカでは飢えた子供たちが戦争に巻き込まれて死んでいるし、新宿でも誰か死んだと思う。僕もあなたもいつか死ぬし、それがただ今では無いというだけだ。

最近は暑すぎるのか、単にピークが過ぎただけなのか、あまり蝉の声を聞かなくなった。昔は溢れんばかりに側溝にうごめいていたザリガニも、見なくなった。昔、と言っても10年も経たないと思うのだけれど、10年も経てば、変わらないことの方がむつかしいのかもしれない。真っ赤なアメリカザリガニ。給食の残りのパンを投げると、それが食べ物だとわかっているのかわかっていないのか、ハサミをザリザリ動かして、仲間の上に我先にとよじ登る。仲間と言っても、種族が同じというだけで、仲良しこよしをしている風ではない。クラスメイト、とかと似たような意味だと思う。僕は給食がとにかく嫌いだったので、証拠隠滅のためによく彼らを利用した。給食の中で唯一パンだけが持って帰るのを許されていたのは何故だろうか。ビニール袋に入れて、それを机に敷くランチマットと一緒に給食袋に入れて、ランドセルの横に吊るして帰る。牛乳は冷たいうちに同級生の男の子に譲ってしまうが吉。温くなると貰い手はグッと減ってしまうから。おかずはみんなパンに挟んで袋にさっさとしまうのだけど、しばしば汁が染み出して、帰る頃には嫌な匂いがした。ご飯が出るときには口の中に入るだけ詰め込んで、トイレまで駆け込んだことだってある。今にして思えば、何もそこまでしなくても、と思うのだが、掃除の直前まで一人で給食に向き合うのも、おかずを残すのに先生に頭を下げるのも、視線の先に見える上履きに母が油性マジックで書いてくれた名前が涙で滲むのも、全く惨めで、耐えられなかった。

夕方になっても、外は汗が滲むほど暑い。木の棒の先にガムテープでとめた提灯を持ってお墓に向かっていた。これが迎え火の代わりになる。ちょっと雑な仕事をこなしたときの合言葉は、じいちゃんなら許してくれるでしょ。昔は怖かったのよ、なんて叔母たちは言うけれど、僕らは囲碁盤にコーヒーとポンデリングを置いて静かに本を読む、「ええよ」しか言わない祖父と、たくさんのチューブに繋がれて、寝返りさえ自分で打てない、僕より腕の細い弱々しい祖父としか、知らない。安楽死の是非はしばしば社会問題として取り上げられるけれど、僕は至って賛成だ。病室はひどく退屈で、入院期間が伸びるごとに足が遠のいた。隣のベッドから聞こえてくる、たんの絡みついた咳が居心地の悪さに拍車をかけて、窓の外をしきりに救急車が通り過ぎる。心残りがあるとすれば、家族にもお医者さんにも、看護師さんたちにも内緒で、水をたっぷり含ませたガーゼを祖父の口の中に当ててやらなかったこと。葬式では亡くなったことよりも、取り返しの付かない悔しさで涙がでた。じいちゃんなら許してくれるかしら、と思いながら、自分は喉が乾いたので、備え付けの給水機で紙コップに水をくむ。ついでに、受付に出ずっぱりの従兄弟たちの分も。高校の恩師は、自分の父親の死顔を何枚も何枚もスケッチして、僕たちに見せてくれた。写真に残した人もいる。僕も何か、形に残してやれたろうか。残したかっただろうか、僕は。そうでないから、今、手元に無いんだよ。祖父の葬式は、マクドナルドのフライドポテトの匂いがした。大好物だった。ケンタッキーのフライドチキンも大好きだったけれど、さすがに他の動物と一緒に焼くのは憚られる。盆に足だけの鶏と帰ってこられちゃ、御供物がきっとめちゃめちゃに荒らされてしまうだろうし。

中学に上がってからは毎日父が弁当を持たせてくれた。毎朝早起きして、見栄えがしなくてごめんね、なんて謝りながら。僕は出来合いのパンとかでもよかったし、むしろそっちの方がよかったのだけれど、とても言えなかったよなぁ。好意を無下にするのは怖い。悪意よりよっぽど厄介だと思う。お弁当の冷えたご飯を口に運ぶのは、少し勇気が必要。卵焼きだって、確かに美味しいのだけど、いつからか体の方が受け付けなくなってしまって、毎日毎日、いかに食べたフリをするかに心を配っていた。今でも父には感謝している。これは、意見と個人を区別するのと同じくらい大切なことですよ。

何も死んでまで家に帰ってこなくてもいいのに。僕たちいつも、早く帰りたいって言うし、その延長かもな。僕が死んだら、厳かな式もお墓も、お花もいらないからさ、忘れた頃にだけ思い出してよ。死んだらきっとそう思うよ、想像でしかないけれど。

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