コントおじさん、漫才おじさんの主催者情報

どうもこんばんは、おじさんライブ主催の中尾です。
せっかくnoteを始めてみたので、ライブのことや個人的なことについて、書き記していきたいと思います。
(おじさんライブって何?という人には一切興味のない話だと思います。猫の動画でも見ててください。https://www.excite.co.jp/news/article/Getnavi_453758/

今回は僕のパーソナルな話について書いていこうと思います。
「知らんがな」という話の連続ですが、もし興味があれば読んでいただけると幸いです。
興味がない人はネットフリックス(https://www.netflix.com/jp/)でも見ててください。

まずはこのライブを主催するまでの話です。

僕が主催した最初のライブ「コントおじさん」はちょうど世間がロンドンオリンピックで盛り上がっていた2012年8月6日、東京・下北沢の「しもきた空間リバティ」という小劇場で行われました。
今から8年前の話です。
お笑いライブを主催しようと思ったきっかけは、単純にお笑いが好きだったということと、時間が余っていたという単純な理由でした。

僕は昔からお笑いは好きでした。
今でこそ東京に住み、東京の言葉をしゃべる人間になりましたが、もともとは関西の出身です。
神戸のポートアイランドに生まれ、幼年期を東灘の御影で育ち、学生時代は三宮に近いことだけが取り柄でなんもない北区の谷上という場所で過ごしました。
子供のころから漫才番組を見ては、「いとしこいしはすごい、のりおよしおは全然おもんない」と言っては、親に「お前は将来、藤本義一になるんか」と将来を心配されていました。(当時は藤本義一が誰か分からなかったので、褒められているかけなされているのかもよくわかりませんでした)

とはいえお笑い大好きっこだったわけでもなく、ごっつやらウリナリやらボキャブラやらタケシムケンやらお笑い番組も大好きでしたが、漫画やゲームも大好きな普通の外で遊ばないタイプの子供でした。

高校では演劇部に入り、脚本みたいなものを書いたりしてましたが、特に作家になりたいという気持ちは皆目なく
とりあえず親元を離れようという思いだけで、卒業後に東京の大学へ(日本大学文理学部)。
別にやりたいこともなかったのですが、サークルは入っとこうと思ってお笑いっぽい日本大学文理学部落語研究会に入会。
そこでお笑いの大会とか出てるうちに、芸人になりたいと思うようになりました。

色んな養成所がある中で、色々考えた結果人力舎のJCAに18期生として入学。
養成所ライブで連続最下位を取るぐらい面白くなかったので、作家にならなれるんじゃないかという軽い気持ちで作家の道へ。
養成所の講師だった夜ふかしの会の岡田さんが構成で入っていたラジオに1年間メールを送り続けて、24歳の時RFラジオ日本(ニッポン放送ではないです。名前とは裏腹に関東ローカル)で放送していた「宮川賢のおはようスプーン」という番組にサブ作家という名目で入りました(思いっきりノーギャラでした)。

同時期にネタ見せがしたいという理由でプロデューサーハウスあうんという事務所にも所属。「東京笑い者」という歴史だけはあるライブのネタ見せを、何の実績もないのにやっていました。普通にカミナリとかメイプル超合金に偉そうにネタのダメ出しをしてたので、たぶんどうかしてたんだと思います。

そんな生活が1年ぐらい続いたのですが、このままやってても確実に金にならないことが分かってきたので、何か現状を変えたいという思いで始めたのがお笑いライブでした。

以上が、お笑いライブを始めたきっかけです。
長々書きましたが今後も何か書きたいことが書きますので、お付き合いいただけますと幸いです。

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