今更そんな話を

私の作るものは、媒体を問わず昔からあまり一般受けしない。色々理由はあるが、私の性分がマニアックで、人を選ぶ面が強いからだと言っていいだろう。初めから多くの人間にウケるようなものを創る、或いはそういうスタイルを取るような事をあまりしていない。創作者として見るならばこれは明確に欠点である―――偏に、ファンが増えにくいという点において。

最近の私の哲学・宗教・感性方面の記事については、恐らく殆どの人間が「何を言ってるのかわからない」という感想を抱くであろう。文章という共有する為の手段を用いながらも共有しかねるものを扱う限りこうなる事は避けられまい。文章自体は、それなりに読みやすいものを書くスキルはあると思うのだが……癖が強くなればなるほど、必然的にそこから外れてゆく。内容についても、世間一般で気にされるような事柄ではない。殆どの人間は、哲学などしないのだ。

人は、わかりやすいものを好む。わかりやすく面白いコンテンツが次々に流れてくるインターネットにおいて、私の作るものはわかりにくく、しばしば暗く、或いはある種の味ぐらいはあるかもしれないが、基本的には大抵地味で批判的だ。私のnoteは読者が少ないが、先日適当に書いた「好きなアニメの話」はいつもよりは多少反応が多かった。くだらないコメントまで来たので、そちらは削除してしまったが。アニメの話になると急に浅いオタクが寄ってくる辺り、辟易するインターネットである。


何故急にこんな話をしだしたかというと、親との会話でこういう話になったからだったりする。こんな事を言われた。

「最近あんたの文章よくわからないから読んでない」「旅行の記事は面白かった。文章を金にしていく気はないのか?」

フォロワーにも昔似たような事を言われたが、この趣味を積極的に金にする事については、あまり乗り気ではない。一度軌道に乗ればそのままやっていくのだろうが、わざわざそこまでする気もない……というのが主要な理由になるか。知名度を上げる為の努力……人の評価を気にしないスタイルでやっている以上、偶然どこかで有名にでもならない限り自分から積極的に宣伝する理由がない。宣伝に足る程のものを作っているとも思っていない。ただの暇潰しである。

例えば昔描いていたような絵であれば、多少は宣伝もしていた(当社比)。アイコンやヘッダーにも使っている、こういうやつ。

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一枚描くのにかなりのエネルギーを要するが故に、最近はしばらく絵も描いていない。今後も描く気はあまりない。


それでやっていこうという程の気概でもあればいいが、なにしろ今は「何者でもありたくない」「文字通りの無名になりたい」とすら思っているぐらいである。「有る」ものに拘りたくないし、評価や知名度などとは無縁の世界にこそ喜びを感じている。今更趣味を金にする事など提案されても、困る。当時私を応援してくれていた人についてはありがたかったし、悪いなとは思うが……残念。もうミゾヲチは死んだのだ。車のボディこそ残ってはいるが、ミゾヲチのミゾヲチたる所以はエンジンの方にあり、それが抜け落ちた以上、あとは癖と感性で動く何者かである。

こんな記事を書いている最中ですら、何故今更こんなに私自身の話をしなければいけないのかとすら思っている。備忘録のようなものとしては残しておくが、公開せずにまとめて破棄する方がよっぽど容易い記事である。いい加減、自分の話をするのはやめろ。誰もそんなものに興味は無いのだ。自己嫌悪のように聞こえるが、自分自身が嫌いなのではなく、自己ないし我という概念が嫌いになりつつある、という事だ。それでもこんな内容の記事を書いたのは、実家に帰り昔のように過ごす限り昔と同じ感情や感覚が生じてくるが故である。悪しき癖。

少し面白く思ったのは、久々にそういう気分に戻り、出かけたり知己と喋ったりダラダラしているとそれなりに楽しく過ごせてしまい、そしてそれなりに充実している時は哲学や瞑想についてもそこまで強く欲しない、という事を改めて実感した事である。ああ、大抵の人間はこんな気分かと、久々に普通の人間の感覚を思い出している―――これだ、これが木の板の上だ。通じないわけだ。充実せる者は哲学を要さないし、そんな重い話に付き合おうという人間など稀である。虚無や死の話を振ると、殆どの人間はこれを忌み、積極的に話題を逸らそうとする。疑いなど持たず、日々を適当に過ごしていられればそれで満足なのだ。そういう多くの者に―――私の言葉は、届かないのだ。

すぐこういう話するから一般受けしないんだよってな。

然らば。

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