主義・思想の話

鍋島の記事。

呼ばれた気がしたので書く。tweetした通り、鍋島個人がどうであるかよりはそれを考える為の取っ掛かりとして幾らかの例を挙げるに留める。


そもそも主義とは何ぞやという話だが、これはそいつが取る立場やスタイルの事だと思ってよい。「~ズム」「~スム」と呼ばれるものは大体そう・・・と書いてしまうとカニバリズムやマゾヒズム、挙句の果てにはユニクロのエアリズムまで含めてしまうので一概には云えない(スタイルと言えない事もないが・・・・・・)。突き詰めると過激な思想が待っている事が多いので、大して主義らしい主義が思いつかないというならそれはそれで構わんと思うが、それでも尚気になるなら先ずは如何なる主義が存在しているかについて調べてみるのがいい気はする。何れかを気に入って「自分はこれだ!」と思い込み一時的に傾倒するまでがオチだ。その過程は若い内に済ませるに限る。

といってもめちゃくちゃある。例えば政治に関する主義だけでもこれだけある。

○○派、と呼ばれるものも主義の一種だと思って良い。以下は芸術の主要なスタイル一覧。当然細かく見るともっと大量にある。

論が交わされてそうなものは大体多数の主義がある。そりゃあそうだ、議論とは異なる立場の意見のぶつかり合いなのだから。

心の哲学についてもまあ色々ある。

あくまで心に関してのものだ。哲学は政治に負けず劣らずめっちゃあるぞー。

宗教も凄い。キリスト教のみで以下の通り。

いやぁこういうの見てるとウィキペディアンの血が騒ぐね。我々のような人種にはwikipediaを読み明かした日々がある。必ずある。というか「我々のような人種」の主な必要条件の一つだ。


さてここで俺の主義について少し書くが、身も蓋もない事を言えば「ゾチズム=ミゾヲチ主義」なる自分専用の主義になる(因みにドイツ語で社会主義を省略して言うとゾチズムにならん事もない)のだが、それではあんまりなので既存の主義の内当てはまるものを幾つか挙げる事にする。

一つ、マキシマリズム。ミニマリズムの対義語である。その割には知名度の低い概念と思うかもしれない(少なくともWikipediaには該当記事が無い)が、それにはわりとわかりやすい理由がある。まずミニマリズムについての記事を読まれたい。

今日本で言われているものとは異なる事がわかるが、そもそもミニマリズムは芸術の一派として生まれたものである。そしてそれまでの装飾過多な芸風への反発的性質をもって生まれてきたものであるから、ミニマリズム自体が対義語的存在なのである(カウンターカルチャーとして、こういった例は幾らでもある。スペースオペラに対するサイバーパンクもそうだ)。生活様式として断捨離なる言葉と共に日本にて人口に膾炙して以来低級なものが蔓延ってばかりいる(私怨)。

生活様式としての真のミリマリズムとは、定めた一つの目的の為に特化し他を切り捨てたものを言う。長旅ばかりしている人間なら必然と持ち物は減り、旅に必要な物だけが残る、といったものである。選択と集中という姿勢だけ見れば俺の人格形成と一致するし、それだけなら否定する理由はなかった。

しかし、形骸化するものである。本来の目的を失ったミニマリズムは、手段であった筈の捨てるという行為が目的となり、最終的に卒アルを捨てたかどうかを競うようにすらなるという話である。そもそも物が多いのを何とかしたいからミニマリストになるなどという安直な思い立ちでは既に目的が捨てる事になってしまっている事に気付けというのだ。捨てる行為が気持ち良いのはわかるがね。

そういったものに相対する概念、マキシマリズム。足し算のデザイン、過剰なまでに大量の物品、骨董品屋じみたごちゃ混ぜ感。空間の充填率を極限まで上げたスタイルである。物が多く散らかっているというだけではただの汚部屋で、マキシマリストたるもの信念を持ちテーマ性を有するカオスさを表現していかねばならない。その極地がこちら。

以前も貼ったURLだが、何度見ても凄い。かなり上手くやっているのがわかる。そして手段の目的化は、ああ書いておいてなんだがそれ自体は別に悪ではない。突き詰めるとそうなる(武道が手段ではなく目的となり、戦闘の楽しみに溺れる事を修羅道という。いや、楽しいじゃん? そしてそうなった方が圧倒的に伸びやすいじゃん?)。

この家に引越して、物を置く余剰スペースがやたら生まれてから俺はマキシマリズムに目覚めた。一つの主義を邁進する者にはデメリットが必ず付き纏うものだが、この場合は埃や湿度と戦う日々がそうだ。掃除もしにくい。それでも貫くと決めた時、人は〇〇主義者になる。


もう2つぐらい挙げておこうか。

広義での使い方となるが、実力主義はかなり強く持っている。出自や人格を問わず実力を以て良しとする、程度のもので、Wikipediaを参照すると別の文脈での言葉が出てくるがそちらはスルーされたい。俺は組織論の文脈を想定してこの言葉を使う事が多い・・・・・・自分がリーダー格である時の人物評価基準といってもいい。

ある意味公平だろうが、生まれ持った手札が弱い人間はその時点で不利になりやすい事から平等とは程遠い。低知能や身体障害等は概ね評価が落ちる要因となりやすいが、それ自体が直接人物評になるわけではない。俺が或る知的障害者を低評価したとして、それは知的障害だからではなく結果的に能力が低かったからであろう(知的障害を持ちながらそれを上回る長所を持つ人間はかなり少ないとは思うが・・・・・・。アウトサイダーアートとかだろうか)。障害の有無を問わず、結果としての能力を重点的に見ている。卑近な例を挙げると俺は眼鏡が無ければ一種の障害者と呼んでいい程目が悪いし、極端な例を挙げると、ALSという指定難病それ自体はマイナスでしかないがその程度でスティーヴン・ホーキングの人物評が落ちる事などない。欠点を補って余りある長所を持つのならそれは高評価となる(時代が下る程障害持ちの不利は少しずつだが解消されているなぁ)。他が赤点でも一教科が300点なら歓迎したいというのもここに加わる。が、多少の長所を持ちつつも周囲に有害であればそうもならない・・・・・・と、まあ確たる基準があるわけではない。何を以て有能とするか、何を以て有害とするのか。その辺は俺の主観でしかないし、状況によって異なる。例えば合同誌を出そうという時に基準になるのは(最初は声を掛けやすい範囲に限られるが)創作者としての実力だ。年齢、性別、学歴、容姿といったものは歯牙にもかけないし、合同誌に関する何かしらの点で有利に働かない人間は他の如何な点が優れていようと無用である。精神疾患? 締切守れるならどうでもええよ。

唯才是挙。良い概念だ(三国志では曹操が一番好きですね)。コネも運も実力の内とし、伸びそうな線を持つ人間を見抜けねばならない点で掲げる側も大変である。

そして何より、この言葉は自分が実力者であると思っている人間しか使わない。大抵はそう思い込んでいるだけの愚物なので、俺はこの強者の理論を振るい続ける為にもより強くあり続けねばならない。


最後に耽美主義を挙げよう。芸術至上主義的でもある。勿論耽美系の絵柄が好きというわけではなく、創作の根幹に関わる事だ。

作品にメッセージは不要である。寧ろ耽美主義者にとっては作品の純度を下げかねない点で俺は嫌う。「作者はこの作品を通じて何が言いたかったのか」は「(基礎研究に対しての)この研究は何の役に立つのか」と同等に見当違いな質問であり、理解の無さを自分で晒しているに過ぎない。

創作はそれ自体が目的である。美はそれ自体が目的である。美しければ何をやっても良い。結果的には高い感性を持つ者にのみ向けられた作品になったりもするが、それで良い。美だけかというとそうでもなく、創作は創る事自体が目的である為、創りたいものを創る事にのみ絞られていればそれで良い。何の為に創るかなど考える必要は無い。それがどう影響を与えるかなど考えなくてよい。

俺は露骨に衒学趣味が入った作品しか書かないが、それはそれが好きだからであって、読者に何か教えたり伝えたりしたいわけではない。言っている事は単純なようでいて、シンプル故にそこそこ過激だ。一般受けから離れていく事を厭わない姿勢でもある。

別に耽美主義は作品に限った話ではない、というか高い感性を持っていれば大抵のものは美しく見られるようになる。


取り敢えずパッと思いつくのは以上の3つか。マキシマリズム、実力主義、耽美主義。鍋島が俺を頼ったのは正解で、ハッキリと〇〇主義者だと言える人間は当然思想が偏った人間の事だ。善し悪しではない、ただその主義に傾倒しているという点で偏っているのだ(ここでは議論の立場としての主義は想定していない)。偏った思想を持ち、且つそれを言語化できる人間。まあ手っ取り早く俺だろう。

繰り返すようだが、鍋島が何の主義に近いのかは知らない。ある程度知識を得た後内省するがいい。別に俺程確たる思想でなくとも、〇〇主義穏健派、ぐらいの言い方をしても良いだろう。

然らば。



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