西洋哲学雑感

クマ宅に来ている。精神状態や哲学、死生観、宗教といったいつもの話題になる。途中から化学魔さんが加わった。

竹田青嗣『高校生のための 哲学・思想入門』(2014、筑摩書房)があったので読んでみた。思えばこういった簡単にまとまっている本というのは殆ど読んだ事がなかった。著者の立場に対しては共感できないが、多くの哲学書に共通の「とにかく文章が読みにくい」という問題は、抜粋部分に限るとはいえかなり読みやすくなっていた。

昔から西洋哲学に対して思っていた事がある。西洋哲学最大の瑕疵は(少なくともある時期までは)唯一神を想定している事だ、というものである。或いは善の類についても、著者の願望としか思えぬところがあまりに多い。そんなものは排してひたすら冷たく考えていけばいいのにな。

主客の一致から真理を想定する思想、人間の理性を最高のものとして捉えていた頃の哲学には当然何ら同意し得ず、カント辺りですら「普遍的な善」を説く為に私にはあまり面白くない―――当然といえば当然なのだが。

やはり時代が下る程に面白くなる。実存主義辺りからだろうか。キルケゴールは最終的に神を持ち出す点でどうにも受けつけぬが、ニーチェは途中までは大変しっくり来る。ハイデガーは仏教思想と相性が良いように見えるし、ウィトゲンシュタインは言わずもがな面白い。それ以降はコレジャナイ感が強まるのであまり興味が無い。

というか、この文脈においては私はニヒリストという事になるだろうと思われるので、ニーチェやハイデガーの言葉がまあ当たる。真理への信仰が最終的にニヒリズムを生み出し、それが蔓延すると無難で安楽な生活とよい眠りだけを求める「最後の人間」「末人」が生まれてしまう……おや? 私の事では?

そこで彼はそれを嫌い、超人や永劫回帰を持ち出すのだが、つまるところこれは彼個人の願望であろう。「末人」で既に答えが出ているというに、無理に前向きに生きようとするから発狂したんじゃないか、と私は言いたい。ハイデガーにしても、あらゆる人は存在可能性が無になってしまう死を恐れ、そこから目を背けて世間的な価値観に従って生きるという「頽落」は、私の言う「虚無の穴の上の木の板」理論そのものだろう。それを見据えた上で先駆的決意を以てどう生きるか決めるというのは、この「無」が何を意味するかを決定的に直視した者にはできまいよ。


私の哲学にも当然階層がある。意識は脳や肉体の産物でしかあるまいという唯物論的立場も、主観で見た世界はその真実性が全く担保されないという立場を突き詰めていくと当然否定される(脳科学とて所詮は聞いた話に過ぎない)。が、デカルトの出した結論を否定するのは前者の立場なのだ。主客の不一致についてはそれ自体如何ともし難い思想であって、実生活上の現実問題に即した時に使えるかというと少々遠過ぎる。ハイデガーと共通する仏教の縁起と無自性(どんなものも単独では存在できない)についても私は殆ど全面的に肯定しているが、それはそれとして自我を集団に帰属させると最終的には希薄になり、かといって独立を貫こうとしても自我は消滅せざるを得ない。ではこれをどう扱うかという問いについては、捨ててしまえばいいのでは? という答えが今は一番近いだろうか。さりとて自我を捨て、末人のままに内なる快楽を甘受する姿勢についてはかなり低い階層の思想である。ここで社会や集団の方向に行かないところが末人なのだろう。いやまあ、苦だし。

私は脳内麻薬でキマって安寧を得られるからまだいい。しかしこれも誤魔化しのテクニックに過ぎず、いつか失うかもしれない。逃げきれなくなる日がくるのかもしれない。そうなった時私がどうするかは……何も保証できやしないな。

うーむ。一応ニーチェ読むか。ツァラトゥストラは私の本棚にもあった気がする。

然らば。

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